どないしてもモノにしたい、この強い思いが フリムン徳さん流
「フリムン徳さん日本講演旅行 大成功」“どないしてもモノにしたい、この強い決意が、フリムン徳さん流“4ヶ月、キチガイみたいになって勉強したスピーチの日本講演が大成功しました。東京での第一回目のスピーチではあがってしもうて、ひざががくがく、喉が乾くやら、それはそれはたいへんでした。でも第2回目からは大成功でした。ついに昔の叩き売り時代の徳さんがよみがえってきました。会場のなかに別嬪さんがいないかと、探す余裕が出てきました。そしてまた、えらいことも起きました、夢みたいなことも起きました。この重たいフリムン徳さんがあの薄っぺらい紙の新聞にも載りましたんや。日本経新聞、南日本新聞、南海日日新聞にです。 「波瀾万丈の人生、故郷に錦、人に好かれる大事さ訴え、エッセイスト“徳さん”喜界島で27日講演」、「喜界島出身のエッセイスト、フリムン徳さん、23年ぶり帰国、各地で歓迎フィーバー」、の見出しです。難儀やのう。まだ自分では酔っ払いの大工としか思ってないフリムンの私がとうとうエッセイストにさせられてしもうた。もう一人の別な徳さんがおるようです。TVファンの社長はんは「もう今日から、エッセイストの徳さんと呼ぶ」とひやかしよる。難儀なことになってしもうた。しかし、これだけ騒がれて、彼女の一人も出来まへん、私の男前はアカンのやろうか、難儀な世の中です。フリムン徳さんの日本帰国スピーチ 「フリムン徳さんのフリムン人生」――――――――――――――――――――――――――――――――ladys and gentlman, I am furimun tokusan ,I am so happy to see you.私、日本語わかりまへーん。でも、喜界島のシマユミタわかりまーす。このフリムンの大工が本を書いたら、スピーチまでさせられる世の中になりました。世の中どうもおかしいようです。ホンマはスピーチは賢い人がするはずなのですが、フリムンがスピーチをするのは前代未聞のことだと思います。これも地球温暖化の所為でしょう。皆さん、諦めてください。あくびをしたり、居眠りをしながら、頭を掻きながら聞いてください。皆さん、今日は。今日はコンだけたくさんのフリムンが集まってくれて大感激です。アメリカよりも東京のほうがフリムンは多いようで、心強いです。私が顔は男前の徳さん、首から下はフリムン徳さんです。「フリムン徳さんの波瀾万丈記」が出版されてから、皆さんは私をフリムン徳さんと呼んでくれます。喜んでいいのか、悲しんでいいのか、迷っています。難儀なことですねん。その難儀なことが今、皆さんの前で起きましたんや。4ヶ月前から苦労して覚えたスピーチを皆さんの前に立った途端に上がってしもうて、全部忘れてしまったようです。もう、ワヤデスわ、ワヤクチャですわ。だから皆さん、もしもの時にはこの紙をカンニングしながら朗読させてください。これこそホンマの神頼みです。フリムン徳さんの神頼みです。宜しくお願いします。私は喜界島でファンスーと味噌で育ち、アメリカでは30年間ビールと肉で育ち、ビールの飲みすぎで、とうとう、痛風、関節炎で大工仕事が出来ん身体になりました。ビールの飲みすぎ、牛肉、サバの食い過ぎが痛風の元、酒の飲みすぎが糖尿病の元。ビールも酒も飲まないのはフリムンの元とアメリカの医者に言われました。ちなみに、英語ではフリムンのことをフリーメンと言います。ほんまでっかいな。家で、辞書で調べておくんなはれ。ところで、皆さん、私はフリムン、フリムンとフリムンソングのCDまで出来て、フリムンを売りものにしていることに非常に気にしています。特に私の家族、親戚、同級生の皆さん、喜界島の皆さん、そして喜界島の町長さんには非常に申し訳なく思っています。上園田家からフリムンが出たと、ウヤフジも困っていると思います。どうかユルチタボーリ、ウヤフジガナシ。ヤマトチュウに喜界島はフリムンのいる島やと誤解されないか心配なのです。 今日は皆さんの前で私のフリムン人生をしゃべろうと頑張っていますが、何しろ、手相占い師、叩き売り、キャバレーのボーイ、おでんや、夜逃げの引越し運送や、まともな仕事では、絨毯カーテン家具や、日本生命の外交員、パラグアイでは、日本語と英語の先生、アメリカでは大工、物書きの端くれと50以上の職業を変えながら、喜界島、大阪、パラグアイ、アメリカを63年間転々としていたものですから、まともな標準語ができまへん。まともにできるのは48年前のしまユミタ、その次が大阪弁です。そして、英語がインチョウマ(少し)そのインチョーマ知っている英語をしゃべってみます。「I AM SO HUNGRY,YOU HAVE ANY SWEET POTATOUS?「ワタ フィチャ、ファンスーやネンナ」、「I AM SO HUNGRY、YOU HAVE ANY SWEET POTETOS? ワタフィチャ、ファンスーヤネンな」聞き覚えがあるでしょう。これが私の知っている英語なのです。 それから、ロサンジェルスでメキシカンを使って大工をしていましたから、スペイン語もインチョウマできます。「オーラ、オーラ、コモエスター ハグィー、ハグィー、マリマリヤ―、」「オーラ、オーラ、コモエスター、ハグィー、ハグィー、マリマリヤ―」これも聞き覚えがあるでしょう。そうです、英語もスペイン語も島ユミタも似ています。だから喜界島出身の皆さんはすぐに英語、スペイン語が出来ます。ヤマトゥチュウとは違うのです。自信を持ってください。こんな私が今から標準語でスピーチをやろうとしているのですから、これは大変なことです。ヤッケ―タムンジャ。キャーッシナユッカ。フリムンの選挙演説になるか、フリムンの喚きになるか、フリムンの叫びになるか、あるいは途中で忘れて、紙を見て朗読するかも知れまへん、どうなるかまったく、わかりまへん。でも、もし私のスピーチがうまく終わりましたら、大きな拍手と札束をどんどん遠慮なく投げてください。焼酎もこぼれんように投げてください。実はこの日のために私は4ヶ月前から、擂り粉木を手に持って、マイクの持ち方、しゃべり方を鏡を見ながら、猛稽古しました。一箇所だけを見ないで、全体を見回しながら、前も後ろも右も左も見ながら、お金が落ちてないか下も見ながら、ニヤニヤ笑いながら、頭を撫でながら頑張ってきました。エッセイは頭を掻きながら書きましたけど、スピーチの稽古は頭を撫でながらやりました。だから、私の頭はこの通り禿げ頭になったのです。よく、ご覧下さい。さて、私が今住んでいるカリフォニア モントレーのブラッドレーという村は車で北はコンピューターで有名なシリコンバレーのサンノゼへ2時間、そしてサンフランシスコへ3時間、南はロサンゼルスへ4時間ちょっとの海抜300メートルの山の砂漠と呼ばれるところです。乾燥していて、昼間は暑く、夜は寒い砂漠の気候です。今年の夏は摂氏49度になる日もありました。冷房ナシの家の中にも木蔭にも暑くておれまへんでした。その日フリムンの私はどうしたか? 私は家の床下に潜って絨毯を敷いて薄い毛布をかぶって暑さをしのいで寝ていました。床下に豚が寝ているのか?違いマンね、フリムン徳さんが寝てまんのや。難儀な男です。そんな暑いところの私達の住まいは9年前にたった10万円で買った、 ペイントの禿げたキャンピングカー、 夏は暖房完備、冬は冷房完備、雨が降ると必ずどこかが漏る至れり尽せりです。人間が住める車ではおまへん。でも住まんとあきまへん。家賃を払う金がなかったからです。夏はムシ風呂の中に住んでいるようなモンですが、乾燥しているから汗はあまりでまへん。出るのはため息だけです。 だから皆さん、俺よりもまだ貧乏人がおったと安心して、喜んで、優越感を持って生きてください。 このおんぼろの住まいの庭先へは私達が、えづけした、ウズラ、野ウサギ、鹿、きつつき、猛毒のガラガラヘビが堂々と餌を食べに水を飲みにきます。このガラガラヘビを殺すのは内の嫁はんの仕事です。殺す方法は首を斬るのではありまへん、頭をスコップで叩くのです。だから家の外には必ずスコップを置いています。たまに隣の牧場から牛も逃げてきます。いのしし親子もたまにきます。周りは牛、馬、牧場、禿山、ブドウ畑、アメリカ人ばかりで、日本人は私と嫁はんだけです。ここで私と嫁はんは英語じゃなくしまゆみたで生活しています。だから私達は英語が達者でないのです。こんな山の中から私はインターネットを利用して、楽天、ヤフー、ミクシ―にブログを書き、「フリムン徳さんの波瀾万丈記」を日本、アメリカ、イギリス、ブルガリヤ、ぺルー、カナダの日本人に売りました。 本というものはそう簡単に売れるものではありまへん。ベストセラーにするには宝くじを当てるよりも難しいらしいです。それから、私が毎月1回、インターネットで日本とアメリカのフリムン応援団に送っているフリムン徳さんアメリカ便りももう28回を越えました。インターネットのフリムン応援団も日本、アメリカに230名以上できました。それ以外の応援団、喜界島の豚、山羊、牛を入れるとフリムンの応援団は大分いると思います。ありがたいことです。ウヤフジのお陰です。<続く>