テーマ:映画館で観た映画(8560)
カテゴリ:映画★アニメ
最初から最後までめちゃくちゃ面白かった。 私的には、「エヴァンゲリオン」より面白かったかも。 はいはい。ネタバレ全開で書きます。 物語の舞台の一つは、仮想社会。バーチャルワールド。『OZ』 かつてバーチャルワールドとして騒がれた「セカンドライフ」が失速していく現在。日本初の新しいタイプの仮想SNS社会として、昨年始まった「ニコッとタウン」というものがあります。私もニフティ経由で少し前からはじめましたが、最近楽天にも、広告がではじめて驚いています。 現在のニコッとタウンは、まだ、アバターや簡単なゲーム、現実に存在する企業からの広告、出店と、コミュニティサークルがある程度でまだまだちゃっちいものですが、これがずっと進化していくと、この映画のように、現実に存在するいろいろな公共のお役所や、税務署、公共機関、企業の出店などのある、リアルとほとんどかわらない、納税、買い物のできるものへと、進化していくのかなと、思いました。 セカンドライフは外国からの輸入形態であるため、アバターも八頭身くらいのものですが、ニコッとタウンは、4頭身くらいで、日本人うけするキャラクターデザインになっています。映画の中のバーチャルソシェティである「OZ」のアバターもかわいいデザインになっていて、イメージとしては、「セカンドライフ」と「ニコッとタウン」を足して二で割ったような感じです。SNSといえば、「mixi」が有名ですが、そのさらに進化した形として、ニコッとタウンは、アバターがあり、ブログ、コミュニティの他にも、いろいろな会員どうしの交流をすすめるシステムが作られ続けています。 さて、この映画では、そういうSNSがより進化し、世界中のほとんどの人たちが加入しており、ネットを通していろいろなことのできる世界です。 ところがそのOZに入るためのセキュリティがなにものかによって破られ、主人公ケンジをはじめとする多くの人たちのアカウントが盗まれてしまったために、世界中の機能が麻痺、信号がとまり、大渋滞が発生し、水道などの制御もできなくなっていきます。さらには、原子力発電所をめざして、衛生が落下しはじめてしまいます。 世界中がマザーコンピュータに管理されている社会。ところが、そのマザーコンピュターが反乱をおこしたために、世界中の機能が麻痺して大混乱になるというお話は、すでにSFではよく書かれ、映画も作られてきたストーリーです。けれど、この映画は、微妙に違います。世界のシステムを管理し、つなげているのは、バーチャルワールドであるOZです。 そして、その世界の混乱は、OZに入るためのセキュリティが破られ、ラブマシーンというプログラムがはいりこんで、たくさんのアカウントを吸収して巨大化していくことで、起こります。その吸収されたアカウントの中には、公共のシステムを管理するためのものも含まれてしまったからです。 この物語のテーマは、「信頼」だと、思います。 SNSというのは、コミュニティサイトです。会員同士がブログやコミュニティや、アバターを通して、コミュニケーションを深め、仲良くなっていく。けれど、そのSNSには、会員にならないと、はいっていけません。そして、一人ひとりがじぶんのアカウントをもっていて、それによって、セキュリティが守られているわけです。 けれど、どんなに厳重に作られたセキュリティであっても、やぶられないセキュリティはないのです。絶対安全ということは、ありえない。今、ネットが社会の中にどんどん増え始めていて、そして、ネットの中の常識として、安全性、セキュリティは、最も大事なものとして、どうしたらより安全なセキュリティがつくれるかが、求められています。 けれど、絶対安全なセキュリティは、ありえない。 その一方で、物語のもう一つの舞台となるケンジの訪れた田舎の旧家(ヒロインナツキの曾祖母の家)は、多くの親族が一緒に住んでいて、鍵もなく、窓もなく、すべてがあけっぱなしのものすごく開放された家です。個人の部屋もいっさい仕切られていません。縁側の向こうはもう広い庭。ものすごく大きな家なんだけど、広い庭と垣根があって、門もあるけれど、その門だって、開けっ放しです。 昔の日本の村というのは、村中の人たちが昔からの顔見知りで、お互いのことをよく知っている。だから、それぞれの家はみんな開けっ放しで、鍵なんて全くありませんでした。泥棒なんてありえない。村中の人同士の信頼があったからです。 「赤毛のアン」の物語の中でも、プリンスエドワード島の人たちはみんな知り合いで、だから、鍵をかけるということもありません。村中がお互いを信頼していて、だから、鍵なんてないのです。 映画の中のOZのマークが鍵穴の形をしています。そして、アカウントを入力するシーンがOZのマークである鍵穴に、鍵を差し込むという描写なのです。ネット世界にあけるアカウントというのは、つまり、自分の家の鍵と同じなのです。厳重にセキュリティを作り、鍵であるアカウントによって入る世界。セキュリティによって守られている社会。 今、社会はセキュリティが問題視され、よりハイレベルのセキュリティを作ることにエネルギーがむけられています。人と人のコミュニケーションが大切と、いいながら、コミュニティサイトを作りながらも一方では、セキュリティ強化の進められていくネット社会、リアル社会。けれど、本当にそれでいいのでしょうか。 コミュニケーション。人とひとが会話をするのは、相手がどんな人か知るためです。そして、知りあった先にあるのは、相手に対しての信頼です。信頼するために人は会話するのです。信頼した友人にはよく自分の家の鍵を渡したものです。その究極の世界が、鍵のいらない社会なのではないでしょうか。 信頼があれば、鍵もアカウントもいらないはず。それこそが究極のセキュリティなのだと、思いますし、この映画の訴えていることです。 だから、クライマックスシーンで、ラブマシーンと戦うヒロインナツキのために、世界中の人たちがみずしらずのナツキにアカウントを預けるのです。それは、自分の家の鍵をまったくしらない人に渡すのと同じ行為です。なぜ? それは、世界中の人たちがヒロインなら、自分のアカウントを預けても大丈夫だと、信じたからです。 これから先、さらにネット社会が進化していく一方で、セキュリティ強化も叫ばれていくし、進められていくでしょう。けれど、人が作るものである以上、絶対やぶれないセキュリティなんて、ありえません。だからこそ、最強のセキュリティは、信頼であり、信頼すること、信頼されること、なのだと思います。アカウントなんか盗まなくてもすむような、泥棒のいない社会。目指すものはそいうい社会なのだと、思います。 それは、物語にでてくる田舎の旧家のような鍵も窓もないオープンで信頼された社会。ドアをしめて鍵を閉めてクーラーをいれて快適に暮らす社会は、窮屈で、息苦しくて、つらい。そして、どんどん温暖化していってしまうもの。 物語中にでくる旧家の総元締めの栄おばあちゃんも、あちこちに電話する。電話機は黒い昔ながらのアナログなものだけれど、その電話機だって、デシタルなシステムによってつながっているものですが、栄おばあちゃんのこの行動もまた、人と人の信頼の大切さを語っているのだし、それは、リアルもネットもおなじなんだと、言うことです。 物語の中ではさらに、その旧家の門さえもが、ぶち壊されて行きます。セキュリティも鍵もいらない安心してすめる社会。泥棒なんかしなくてもいい社会。 ネット社会が進んでも、リアルの世界との差がなくなってどんどん繋がっていった時、だからこそなおさら、人を信頼するということを忘れないようにしたい。 そういう映画だったのだと、思います。 ところで、この映画。悪事を働くアバターのデザインがミッキーマウスにそっくりだったり、最後の真犯人がアメリカ国防総省だっり、普段のアメリカの行動に対してのちょっした怒りが表現されてるんじゃないかなと、思うのは、私だけかなぁ。
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最終更新日
2009年09月10日 09時58分53秒
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