テーマ:社会のあり方を考える(116)
カテゴリ:まんが
最近父性の物語を読むことあるいは、見ることが多い気がする。 母性愛は有名で、そしてまた、そんなのは、幻想だという、反対論もあるけれど、父性が話題にされることは少ない。 先日までみていた、『LOST』は、はじめロビンソンクルーソーの集団版の話かと思っていたら、物語の進んでいくうちにだんだんSFっぽい、ミステリアスな物語になってきた。でも、その物語の中で、たくさんいる登場人物たちの誰もがほぼ、父親とうまくいかずに悩んでいる。そういうエピソードが、毎回一人づつ、語られていく。 物語の舞台となる島の中で、どうしても、子どもがうまれないのは、メインキャラクターの一人であるベンが、彼の出生にからんで、妻を失った父親にせめつづけられる彼の恨みがからんでいるよう思えるのだけれど、どうなのだろう。そういう父親というものが、子どもにあたえる影響のこわさとか。 そして、ついこないだ読み終わった『プルートゥ』もまた、父性が絡んでいるように思えたのだ。 かの巨匠手塚治虫の代表的な作品である『鉄腕アトム』を今話題の浦沢直樹が自分なりにアレンジして、書き上げたものだ。 そのもともとのアトムのアニメも、原作も私は見たことも読んだこともないので、どこがどう同じで、どこがどう違うのか、わからない。 それでも、アニメ化されていく中で、アトムというキャラクターが一人歩きをはじめて、どんどん美化されていき、作者である手塚虫がもともと考えたものとは、まったくちがうものになってしまったことに、手塚治虫がずっと、不満を持ち続けていたこともまた、割と有名な話だと、思う。 作者にとっての作品もまた、自分の子どものようなもので、手塚が理想とするアトムにならなかったことが、彼には、とても苦々しいものだったみたいだ。 物語の中でも、アトムを作った天馬博士は、アトムに対して、自分の望むものとはどこかちがうアトムに対して、イラついている。 母親は、子育ての段階で、いかに子どもが自分の思うとおりにならないものか、つくづく味合わされて、とりあえず、そこそこに育ってくれればそれでいい、位に思っているものだけれど、父親というのは、息子に対して、要求がきびしいというか、もしかすると、理想の自分をみているのかなと、思う。 父親は、娘にたいしては、ただ、かわいいだけなんじゃないかと思うんだけれど、息子に対しての、父の意識ってなんなんだろうと、いつも思う。 で、名画なんかでもよく見かける放蕩息子の帰還とか、父息子のいざこざとか、反発とか、断絶とか、島崎藤村の「和解」という小説も、不仲になった父と息子が、最後に和解して、仲直りする物語だし。 アニメの『鉄腕アトム』で、見ているときには、ロボットと人間がほぼ同じ立ち居地で、それぞれに人権がみとめられ、友達として、人間とロボットがなかよくしている状況は、ほほえましくて楽しく見えた。でも、『プルートゥ』で、えがかれたロボットと共存する社会はこんなに恐ろしくて怖い社会だったのかと、びっくりした。 ロボットが子どもをもったり、家族をもったり、食事をしたり、どこまでいっても、所詮真似事で、人間と同じ暮らしをするイコール同等とは、思えないんだけな。そして、人間のための社会がいつのまにか、ロボットの社会にすりかわっていくのも怖い。 そういうロボットたちをつくっている博士たちが、自分の作ったロボットをわが子のようにみている時、愛情なのか、不満なのか、理想どおりならないロボットたちにやっぱりイラついている。 そういう物語だったりして、そこに、平和とか、戦争はよくないとか、憎しみやそんないろんなマイナスの感情を語っていたりする物語だったりする。 父親は息子に対して、完璧な自分を求めているように見える。そこが母性と違うと思う。じっさいのところ、父親がわが子にたいしてもつ愛情とかって、どんなものなんだろうか。私は女だから、どう考えても、周りの男性たちをみていても、やっぱり、よく分からない。 そして、そんな父性を問い直している物語のような気がする。 ちなみに、このての物語で、戦争をする人類はおろかでとか、かたられるけれど、人類じゃなくて、戦争するのは、あくまで男性ですから。女性は戦争なんて、そもそも、やらないですから。「戦争をする男性はおろかである」と、書き直して欲しいよね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年02月10日 07時53分23秒
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