アート脳が白菜になるまえに、浅野真一を見た
モネの積みわらの絵を思いうかべるオフ農耕シーズンの風景大枝の柿畑洛中では芸術系大学の作品展が立て続けに行われている先週末は京都市立芸術大学。岡崎の市立美術館を見て大枝の本学での展示を見たアートの見過ぎはよくない。すぐにメモリフルエラー。はいってこなくなる。作家の掛けたじかんを思うと観賞のじかんは一瞬に過ぎない。一瞬のために作家は生涯じかんをつぎ込む・・・夕刻には桂駅周辺のオープンアトリエもまわった・・・ハードすぎた夕暮れ近く、農家の前にホウレンソウや白菜や日野菜が並んでいた、新鮮そうで、村にやってきたモノにとってはその風景自体も新鮮だった相方がホウレンソウを買った。さすがに白菜は重いのだ、そうだ・・・野ッパラに100号を持ち出して風景を描いている作家がいるその話をコダマさんから聞いたのは去年の春先だった浅野真一氏芸大の裏門を抜け、高速道路の延長工事が始まろうとしている山裾を超えて、旧道を歩き、細い道をさらに入ったところ。視界が開けた生駒から大阪が見渡せる。広大な風景の中に、彼はいた。100号のキャンバスが何とも小さく見えた教会の前で、積みわらの前でモネは絵を描いた。太陽の動きに合わせて、キャンバスをいくつも取り替えたという確かに様々な積みわらの絵を見たことがある。百年前、じかんは、まだゆっくりながれていた絵はじかんの固まりだと思っていた彼の描いている場所は高速道路になるために柿の木が切り取られた柿畑来年か再来年には、コンクリートの下になる記憶の中だけにしか残らない風景の中で彼は絵筆を動かしていた作家は生涯のじかんを作品に置き換える追いかけるように風景も次々に姿を変えてゆく人が野道を歩いてゆく。焚き火の煙が透明に変わる。雲が流れてゆく。すべてに包まれながら絵の具によって出来事にストップをかける。油絵の中で地球の回転が止まるのだ100号の絵は六ヶ月の月日をかけて「そのとき」を閉じ込めるにほんブログ村