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テーマ:チワワな生活☆(3590)
カテゴリ:雑記
チワワの小太郎、冬の定位置はホットカーペット。そしてそこに人間がいれば、おまたの間にピットイン。人間もあったかいですけどもねぇ。当たり前の顔してなんの躊躇もなくそこに入られると、どっちが主人だかわからないですよ。ちょっとは遠慮しながら入ってきませんか、小太郎さん。ただのベッド代わりだと思ってるでしょ。
小太郎のお洋服、最近のものはほとんど手作り服。買ったものもありますが、手作りした服はぴったりサイズでガシガシ洗濯できるのでヘビロテなのです。(ヘビロテ=ヘビー・ローテーションの略ですよ) で、当然、洗濯しすぎてボロっちくなっちゃった服もあって、「よく着たなぁ」と感慨深いと同時に、捨てるか取っておくか悩むのでした。せっかく作った服だから捨てるのもったいないと思っちゃう。でももうボロだから着せるのも躊躇。 ちょこちょこと新しい服を作っているので、古いのはだんだん着なくなってしまって、小太郎服の収納場所に溜まってしまっています。んー。これも断捨離で捨てるかなぁ。と、いま思っているところ。生地は余っているのもあるから、まったく同じものを作ることもできるんだけど、せっかく作るならちょっと違うのにしたい気もするし、そうなると、最初に作ったものも取っておきたくなっちゃうんですよね。この煩悩がいかんのだな。必要ないもので場所ばっかり取るものはすっぱり捨てねば。 我が家は一般的な、そんなに信心深くない仏教徒です。お盆やお彼岸にお墓参りに行くくらい。だから、熱心に仏教の教えを勉強したりお経を覚えたりはしないんですけども、宗教関係の本を読んで共感を覚えるのはキリスト教より仏教です。キリスト教の聖書は、お話として面白い。仏教は生き方の指針として共感するところが多い感じです。あくまで、個人的に。 だから、断捨離もなんとなくわかる気がするのです。キリスト教でも出家したら私物を持たないとか、そういうの聞いたことありますが、どの宗教でも同じような思想はあるのかもしれません。 挨拶しましょう、って小さい頃に教えられて、その意味もよくわからずに成長して、大人になってから、「ああ、挨拶って大事だな」って思うことってあると思うんですけど、そういう風に、なにもかも理解してから実践するというよりは、先人たちの教えをまずは素直に受け入れて実践してみると、あとから「ああ、そういうことか」と分かることって結構あるんじゃないかなぁ。 仕事でもそうだけど、宗教も、先人たちが「詳しく説明しないけどとにかくこうやるとうまくいくから」っていう方法をぎゅっと凝縮したものなんじゃないかっていう気がします。それはどの宗教にも共通することで、気候風土や民族気質や、文化にあったようにアレンジされてそれぞれ違った宗教になったんじゃないかと。 だからね、迷ってる人は自分で迷い迷って道を見つけるのもいいけれど、古今東西の宗教のどれか共感するものに頼ってみてもいいんじゃないかとも思うのです。それで生きやすくなるのならば。逆に宗教にしばられて生きにくくなる可能性もあるので、それは注意しなきゃいけないけれど。 前にも書いたけれど、病気になってから何度か宗教に誘われたり、誘われかけたりしました。でもねー。なんかその方々、あんまり生き方が上手くない感じでした。だから宗教に救いを求めてるのかもしれないですけども、宗教にしがみついちゃってるような感じもして、いろいろ難しいもんだな、と思ったのでした。
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最終更新日
Nov 23, 2010 06:17:46 PM
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