カテゴリ:精神世界
出演者:人間禅師家 工学博士 丸川 春潭(しゅんたん)老師 裏千家 淡交会北九州支部 元幹事長 宮崎 宗烏(そうう) 先生 テーマ:茶禅一味 -日本の精神と文化の源流- (写真 左 宮崎先生 右 丸川老師) ●出演者プロフィール ・丸川 春潭(本名/雄浄) 昭和15年生まれ。 住友金属工業技監、日本鉄鋼協会理事を歴任。 元大阪大学特任教授。現在、中国東北大学名誉教授。工学博士。 人間禅立田英山老師に入門。現在、人間禅教団総裁、師家。 ・宮崎 宗烏(本名/正喜) 大正15年生まれ。 高等学校、中学校、養護学校で教員として教育に携わる。 華厳宗、東大寺、管長、清水公照師のもとで出家修行の経験も積む。 小学生の時より、茶道を習い始め、松本宗京先生に師事、75年近く茶道に親しむ。 裏千家 淡交会北九州支部 元幹事長 現在参与。 昨年09年末は、「男だけの茶会」を小笠原庭園で行い、新聞TVでも有名になる。 ●テーマ 本日は、禅と茶の師匠をそれぞれお招きし、「茶禅一味 -日本の精神と文化の源流-」と題しまして、お話を伺います。 世界の今日の危機を打開、リードしていくのは、日本とその精神ではないかとも言われ、世界から高い評価と期待をもたれています。 この日本精神の源流について、どこにそのすばらしさがあるのか、あるいは日本には、独特の言葉として「道(どう)」というものがありますが、そのへんとの関係についてお聞きしたいと思います。 ●茶人からの観点 (宮崎先生) お茶を、子供のころから80歳を超えるまで続けています。3回ほど辞めたいと思いましたが、辞めませんでした。 それは、茶の湯が人間として何かはなさないものがあるのだろうと思うのです。 利休の言葉に、「仏祖の後に従え」という言葉がありましたが、何だろうと考えると、そこにやはり禅というものがあって、禅が茶の湯を支える根本ではないかと、老齢になってつくづく思うところです。 利休が「茶の湯とは、ただ茶をたてて飲むだけ」と言ってますが、ようやくそれが判ってきた気がします。 ●禅者からの観点 (丸川老師) 宮崎先生の話の中に、テーマである、精神の源流の糸口がある気がします。 それは、デジタルな知識ではなく、深い感性の面が日本の精神の源流、そして利休のわび茶であり、禅と共に茶道の中に培われているのではないかと思います。 禅は、三昧(ざんまい)を身につけることが修行。 この観点で茶道を観ると、非常に近い。 茶道も一身不乱に修行してゆく。まさに禅の三昧の具体的方法を思います。 ここに共通の深いものがあるのです。 世界への寄与ということでは、禅は悟りを開いていくのですが、迷いと同様にその悟りも忘れていく。そういうふうに人間形成を深くしてゆく。 宗教戦争をやっているというようなことに対し、迷悟両忘することが、全ての宗教に相通じることになり、皆が手を繋いでいくことのできる提案になるのではないか。 また茶には和がある。 和が日本のわび茶の特徴。 これが、まさに対立を解消していく智慧として発信されてゆくべきでは。 それが、人類に役に立つのではないか。 それを、日本の若い人が理解して、禅や茶に親しんでいただけたらと思います。 (宮崎先生) 迷悟両忘にはびっくりします。 今日の茶会でちょうど「百雑砕(ひゃくざっすい)」という書をかけました。 百の雑を砕く、と書いていますが、何を叩き壊すのかと思っておりましたが、迷と悟を両方叩き壊すのですね。よくわかりました。 迷いという悪いものを砕けというだけでなく、悟りというよいものまで砕けというのがすごいと思います。 (丸川老師) そうです。 最後に「我」が出るのです。 あーしよう、こーしようと念慮が出る間は我が動いているのです。 最後に残るのがやはり「我」です。問題の元凶です。 悟ったら悟りを持ち続けたいというのも「我」です。 これを砕き尽くすことができるかです。 本当に深い三昧力がついてくるとそれが消える。 「空ずる」と言うものですが、それがまさに「百雑砕」です。 ●茶のこころ (宮崎先生) ご縁で中学にお茶を教えに行ったことがあります。 最近は荒れているので、心配しておりました。 お菓子を配りました。そしたら、半分だけしか食べない。 紙につつむから、どうするのかと聞いたら、持って帰って、お母さんに食べさせると言うんです。 これは感動しました。 これが茶の原点ではないか。 それから、生徒にお茶の感想文を書いてもらいました。 試験のときには、名前も書かないような子供が、名前も書いて、感想も書いてくれたのです。 そのとき、人間とはまんざらじゃないなと思いました。 それは、茶のもっている何かがそうせしめてるのだと思いました。 ●こころの教育 (丸川老師) 日本の教育で、こころの教育がないと、最近大きく反省されています。 茶道による教育も、重要なことではないかと思うのです。 禅の方では、自分の呼吸を数える、数息観法という、こころを磨く方法があるのです。 お茶を学校教育に取り入れ、更に自分の呼吸を数えてこころを鎮めるということをやっていったらいいがと思うのです。 (宮崎先生) 服装の乱れた子供が、お茶が始まると、服装を正していました。 やはり、お茶の何かの力だと思いました。 自分の方が、もっとしっかりやっていかなくてはと思わさせられました。 (大坪) 私も、近年お茶を習い始めたところです。 坐っている空間がゆっくりと感じられるようになりました。有難いです。 生活していることに対し、じっくりと感じ、観ることができるようになり、よかったと思っています。 若い人には、茶道等にふれる機会が少ない。 学校の教育の中で、和の文化と触れられる時間ができるといいのじゃないかと思います。 ●道とは? よく日本では使われる言葉ですが、改めて考えてみると判っていないようです。 (丸川老師) 茶の重要な要素のひとつは、人間形成という宗教的側面です。 これがなくては、茶道ではない。 人間形成の道というのが、「道」の共通するものだと思います。 剣道でも、あてっこのスポーツとしてのものであれば、道から外れているのではないか。 日本剣道連盟の綱領では、剣道は人間形成が目的だとはっきり言われている。 道がつくものは、書道、華道、全て共通して、人間形成が基幹にある。 そしてその基本は、「三昧」を身につけていくことが共通にある。 茶であれば、手順、作法を完全にマスターし、自然に手が動く。 剣道もしかり。 これが、世界に発信していく日本文化の根幹というものじゃないでしょうか。 ●「道」こそ世界平和の道 (丸川老師) 先般、あるご婦人が見えて、こう言うのです。 長い間クリスチャンの道を主人と一緒に歩んできました。 最近、主人が亡くなりました。 ふと、禅をやってみたいと思っていますが、クリスチャンは続けるつもりです。 こんな自分でも禅をやっていいでしょうか、と。 私はウエルカムだと言ったのです。 私は禅者になれなんて言わない。 禅をやって、本当のクリスチャンになりなさい。なれます、と言った。 茶人でも、禅者になれとは言わない。 禅をやって、本当の茶人になりなさいと言うのです。 迷悟両忘、徹底して、真に自由に、いろんな人と手を繋いで、本当に楽しく、仲の良い社会、世界を作っていけると思うのです。 それが、日本の和の精神であり、それを世界に発信してゆく。 ボーダレスに本当にこれからの人類に必要なものを、日本が発信できるのではないか。 例えばイスラム教でも、禅をやって、本物のイスラム教になればいい。 本物なら、相争うことはないでしょう。 ●自由になりなさい (宮崎先生) お茶をやるとき、「自由になりなさい」と言うのです。 お茶を教えた、学校の学生さんたちにも、これから何年かして、苦しいときがあれば、このお茶を習ったときの、静かで自由な精神を思い出しなさい。 足立山を見なさい。 野原の花を見なさい。 そして、お父さん、お母さんの言うことを聞きなさい。 と言って別れました。 ●最後にひとこと (丸川老師) あらゆる技芸道、武道に共通するものとして、姿勢を正し、自分の呼吸を数えることに専念する、数息観を教育に取り入れて頂けたらと思います。 (宮崎先生) しっかりした、美しいものを見る目を養っていただきたい。 ●吉岡感想 わかっているようで、わかっていなかった、日本文化の深いところを、よく勉強させていただきました。 日本の精神が、また好きになりました。 ありがとうございました。 (コーディネーター 吉岡) 1日ワンクリックの応援お願いします。 ↓ ↓ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年04月15日 18時55分17秒
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