「平和」ということ
「平和」でなくなるとはどういうことか?AとBがいて、両方が同時に同じ程度豊かになればいい。しかし、Aが豊かになり、Bが豊かでない場合、Bが豊かになろうとすると、Aの豊かさを奪うとなると、「平和」ではなくなる。Aは豊かさを守ろうとするし、Bは豊かさを追求する。そこに「平和」でない状況が生まれる。そのとき、武力で守る、武力で富を追求するのが結局、戦争。憲法九条はこれを放棄したことに他ならない。なんとかして、「平和」でない状態を武力を用いないで「平和」にもっていく。外交でもって、いさかいのない世界を築く。それが9条のえがいたあるべき姿だった。しかし、戦後日本はどうだったか。日本は核の傘とかいって、みずからの富をアメリカの武力に頼り、言いなりになってここまできた。9条の精神はないがしろにされ続け、アメリカ任せの外交でここまできた。そして公然の秘密といっていい「核の傘」まで、否定する。でたらめな政治外交。きょうの朝刊。朝日は野党共闘 外交安保は先送りと批判めいた、まるで自民党幹事長のような論調だが、それは、これまでの自民党の主体性のない、そして理念のない外交安保は肯定されるとでもいうのだろうか?麻生首相は、「この国をまもる」と連呼するが、なにから守るというのだろう。北朝鮮だか、中国だか仮想敵国はどこだか知らないが、宇宙人の襲来じゃないんだ。外交交渉がその前提にあって、最後の最後に「武力」となるのだ。その「外交」の努力もなく、よくぞ「まもる」と言えたもんだ。守るべき国民が拉致されても、この4年間、なんも出来ていないではないか?守れていない。ちがうか、守れなかったものを取り返せていない。これはもう、外交力がないということを如実にあらわしているとしか言いようがない。郵政郵政と大騒ぎの元首相、だったら俺がもう一度北朝鮮に行って談判してくるってなんでできないんだろう。そういう発想さえもないのか?でてくるのは、ミサイル防衛だ、先制攻撃論だ、っていう話ばかり。平和をまもるというのは、並大抵なことじゃない。その自覚が与党自民党にはない。アメリカにくっついていけばいいとしか頭が働かない。幸か不幸か、世界は「平和」にむかって、いい空気が醸し出されている。北朝鮮の「核」?ふつうに考えれば、ロケットの発射も、核実験も武力で日本をなんとかしようというのではなく、デモンストレーションでしょう。外交の手段としてそれらを使っている。それを「脅威」とあおるのではなく、そして、アメリカの手先きになって、うごきまわる日本国自衛隊ではなく、9条の精神を体現した外交安保を次期政権には期待したい。以上、敗戦記念日に考えたこと。