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地域、学校、学級によって差はあるでしょうけれど、一般的にこれらの事例によく似た現象が日本の多くの地域でに見られるのではないでしょうか。苦労して産み育てた子供に「ババア」と呼ばれる親はみじめで、愚かです。 他にも気にかかる乱暴な言葉は数多くありますし、単語でなくても文章全体から感じられる「キツさ」も相当ひどくなってしまいました。相手に対する冷たいトーン。唯我独尊、不寛容、人を見下したようなネガティブな雰囲気。大人や先輩に対する非礼やタメ口。相手を大事にすると言う建前社会が崩れ、自分の気分を撒き散らす。子供だけではなく、社会全体の言語環境が崩れているように思います。ある意味では他人に対して甘えているのであり、態度の幼稚化と言わざるを得ません。 昔から汚い言葉はあります。私自身も決して"品のいい言葉遣いをする人"の部類には入らないと思うし、礼儀が正しい人間でもありません。 例えば、関西では「ドアホ」を使うことがあります。私も時々使いますが・・・。 ・ニュアンスによっては誉められている、または敬意さえ込められている場合もある。 ・敢えてドぎつい表現をすることによって、おかしみを出している。 ・乱暴な言葉を使うことによって相手との距離感を縮め、親しみを表している。 等、「ドアホ」は乱暴であっても相手をある程度いい意味で捉えている表現である場合があります。 今ここで取り上げている「乱暴な言葉」の中にも関西の「ドアホ」の使われ方と似たニュアンスもありますが、軽くは扱うことのできない危うさが含まれているように思います。お互いの関係が良好なときに使う分には親近感もかもし出すかも知れませんが、一旦関係が険悪になったときに、「乱暴な言葉」は灯に油を注ぐ役目になります。 多分、2004年長崎小6少女の殺人事件もそうだったのではないかと思います。加害者少女のHP(なぜかしばらく閲覧可能でしたね)に書かれていた言葉のやり取りは明らかに一線を超えてしまっていました。被害者の子供とは元々仲がよく、日常的な会話は軽いノリで荒れていたようです。これが、仲たがいをした後に非常に悪い方向で作用していたのではないかと推測しています。子供たちのコミュニケーションがタブーレスになってしまっている様に感じます。 言葉は文化であり、子供たちの文化は言語環境の影響を受けている部分が大きいです。ここで挙げているような乱暴な言葉が日常的に交わされる環境で育つ子供たちがたいへん心配です。言ったら言ったで本人にもストレスがたまるでしょう。直接的に言われた相手もたまったものではないでしょうし、間接的に聞いてしまう回りの子供たちにも大きなストレス源になるでしょう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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