虐待の件の他にも、「『少年』Aこの子を生んで・・・」で両親が語っている内容は、そのままストレートに受け取ることはできない部分がけっこうある。両親の記述をぶれさせている原因の一つに、両親の「冤罪の可能性」への期待もあるように思える。
「少年A」この子を生んで...
本書が発刊された1999年の時点でも、まだ両親の頭の中には冤罪の可能性を信じたい気持ちが残っているため、両親の書きぶりには潔さがない。この事件を冤罪の可能性があるとして指摘している人は少なくないし、冤罪の可能性について書かれた本も多い。
少年A矯正2500日全記録
事実、「少年A矯正2500日全記録」によると、母親は少年院で20歳になった2003年のAに面接し、はじめて本人に冤罪の可能性を問うている。「本当にあなたが犯人なの」と。そして「ありえへん」と答えられたことに大きくショックを受けたと書かれている。
子供を信じたいのか、罪の重さから逃れたいのか、冤罪論者の影響もあるのか。両親がこれ程長い間冤罪の可能性を信じようとしていたことには驚きである。「うちの子に限ってそんなことはないはず」という彼らの、感情が事件の6年後にまでにも、強く働いていたことは、注目に値する。
この感情が、加害者家族にすぐに謝罪をしなかったことや、Aが中学入学以降に次々と事件を起こしたことに関して「学校がAばかりを責める」という思いを両親が抱いていたことに影響していると思われる。
親が子供と自分を過度に同一視してしまうこと(母子関係の未分離)は、現代の親たちが持つ妙な心理である。子供が叱られたり悪い立場に置かれることを妙に自分の傷であるかのように感じてしまったり、納得できなかったりする。
その反面、子供と自分に必要以上にクールに距離をとってみたりするのも現代の親たちが持つ間違った心理である。
Aの親には、過度の虐待や愛情不足があったと思う。Aの母は愛情が薄かったと指摘さたことに対して
「三男が喘息でAにはかまってあげることができなかった」
「私は肩凝り性だったので、Aをおんぶした記憶はあまりありませんでした」
と、記述している。その後で、
「一家でよく湊川にあったプールや須磨の海に泳ぎに出かけました」
と自己フォローしている。卓球台を買って一家でプレーしているなど実際母は他にも、Aにけっこう関わっている。
つまり、かわいがっていたつもりであったのだが、スキンシップや濃密な愛情表現などが不足していたのだろう。それに加えて、発達障害のあるAには余計に両親の愛情が十分に伝わっていなかったのだろう。
虐待をして大きく距離を作ってしまい、距離ができたことを十分に解消しないままになっていたのであろう。子どもが可愛いのか可愛くないのか、大切なのか大切でないのか、親自身がわからなくなって混乱している部分がある。それでは子供はもっと混乱してしまう。どうもAの両親には子供との距離の取り方のちぐはぐさが目立っていたのではないかと思える。
体罰論を始めると長くなりすぎるのでやめておく。体罰があるなしを問わず、子供を強く叱った場合には少なくとも子供の痛みを自分の痛みと受け止め、子供の更生に全力で付き合う姿勢を見せる必要があると思う。親としても、教師としても。
事件以来、罪の重さとわが子の可愛さの間でさらに心情が波立ち、この手記にはあちらこちらに不安定な心情が読み取れる。文筆家でもない両親によって、尋常ではない状況で書かれている文章であることを念頭において、両親に関する情報は注意深く読む必要がある。そして、そういう状況で描かれているからこそ、「『少年』Aこの子を生んで・・・」は価値がある資料であると思う。