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Jan 17, 2009
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カテゴリ:その他 雑多

元々重い話題のブログの上に、今回のシリーズは非常に重い話題を続けています。文章もかなり迷いながら書いており、話も行ったり来たりで、同じことを繰り返したりしていて読んでくださっている方には申し訳ないです。

いただいたコメントを読んでいると、たいへん参考になります。考えさせられることが多いです。たいへんありがたく思っています。

<ずれ>

それでは、この両親の普通でなさ、「微妙なずれ」、どんなところにあらわれているのか。

彼らの子育ての日常に見え隠れする「微妙なずれ」は本書からも他の書物からもひしひしと伝わってくるものがある。中にはかなり大きく「ずれ」ていると思えるものもある。この「微妙なずれ」も「大きなずれ」も、今の世代の親が持つ「微妙なずれ」と連続しているように感じるのである。この両親の「ずれ」とAが持つ発達障害や強烈な資質と、社会や学校の荒れ等が相互作用を起こしながら臨界状態に陥り、ついに事件は暴発したのではないかと想像している。以下、いくつかの書籍の中から拾った、具体的な両親の「ずれ」を挙げてみる。

(1)Aがすぐに生まれ出産にあまり苦しまなかったことを母親は手記に「ラッキーでした」と表現している。読み流してしまいそうな部分ではあるが、私は「ラッキー」という表現の軽さに驚いた。出産時に子供が障害を負ってしまう事例が多いことぐらいは、人の親なら誰でも知っている筈のことである。ましてや、殺害された淳君が障害を持っていたことも考えると、あまりにも不用意な表現である。そこらの道端で話をしているわけではなく、加害者の親として淳君の親に向けているという前提で「悔恨の手記」を書いているのに・・・

(2)手記にある「先生たちはノーテンキだった私たち親とは違い、様々な事情からAの状態を深刻に考えられていたのかもしれません」は、自虐的な意味も込めたのであろうが、カタカナ表記は軽いように思う。こんなところで「ラッキー」だの「ノーテンキ」だの言っていること自体が「脳天気」なのではないかと思えてしまう。被害者にとってみれば、ノーテンキな家庭の子供に殺されてしまったということでは、悔やんでも悔やみきれない気持ちになるだろう。脳天気であったことを悔やんでいるのであれば、自分たちの脳天気さについて、もっと深く掘り下げ、反省に至るべきではないのか。

(3)母親は手記の中で「あの忌まわしい事件」と事件を振り返る。文章全体に、妙に当事者意識のない、他人事のような書きぶりが目立つ。

(4)三男の喘息もあって、幼児期のA(長男)には手をかけられなかったという記述がある。前述したように虐待の疑惑もあるような体罰のある厳しい子育てもあった。しかし、それは幼いAにとってはただの大人の都合で、エゴとしか感じられていなかったのではないかと思う。大人は都合で怒る、二面性があるということをAに強く感じさせてしまったのではないか。

(5)手記からは父親はどちらかというとやさしく子煩悩な父親のようにも読み取れるが、妙に影が薄い。本書の中でも、父親の書いたページ数は少なく、一章(被害者家族へのごあいさつ)と三章を担当しているものの、一章が短く、三章が日記であり、父が今の時点から事件をどう見ているのかが伝わってこない。

(6)母親の電話はいつも通り一遍の挨拶もなくいきなり要件から始まるそうである。(PTA仲間の話)

(7)母親は、Aが読みたいといったヒトラーの「我が闘争」を買い与えている「13日の金曜日」シリーズも揃えており、家族で鑑賞していたこともあるという。そういった内容のものを見せまいとするのが普通の親の感覚ではないのか。

(8)中学1年生の時、同級生の女子生徒に悪口を言われたとしてAは彼女の靴を燃やしてしまう。この時、Aの母親は、担任に女子生徒の母親と引き合わされ、「女の子は口が達者ですからね」と言っている。さらに「靴代にしてください。おつりは結構ですから」と、現金を渡そうとした。

(9)淳君が行方不明状態であったときに、父親は三男を連れて、熱心に近所を捜索している。にもかかわらず、父子は捜索の途中(コープ?)で淳君の母親を見かけているのに、声をかけていない。

(10)土師さん家族とは付き合いがあり、家族で淳君が行方不明だった時点で捜索に熱心に関わっている。母親は最初の2日は捜索に一生懸命にであったのに、3日目には捜索を父親に任せて離れてしまい、翌日の児童相談所へ出かけるためのパーマに5時間もかけて出かけている。

(11)淳君の頭部が発見された日の朝には、中学生の次男が臨時休校で早退してきており、淳君の家に電話をかけて兄の涙声で「淳君が何らかの異常な状態での発見されたこと」を母は知っていた。この事態の中、母はAを連れて予定通りに児童相談所へ出かけてしまう。

(12)父親は、Aの逮捕から一ヶ月近くたった時点で、山下彩花さんの氏名(淳君以外の被害者)を言えなかった、知らなかった事を警察に指摘されたと手記に書かれている。

(13)そもそも、両親は逮捕から1ヶ月半たった時点で文面で被害者家族への謝罪を表明しているものの、実際に会って謝罪をしていない(殺害されてはいないが、通り魔殴打事件で重傷を負わせた家族への謝罪もしていないことも被害者は腹を立てている。山下彩花さんの両親には約2カ月半後に直接会って謝罪をしている。)。その理由は、「では、これから土師さんのお宅を訪ねる勇気があるのか?考えただけで足がすくみ、動かなくなる有様でした。私には勇気がありませんでした。やはり怖い。どう反応されるか想像できず、怖かった。私は、Aの父親としてあまりに不甲斐なく、勇気がなさ過ぎました。すいません。すいません。」と父は手記で告白する。そんな理由が通用するわけがないのはよくわかっている筈である。特に父親は何としてでも両家族に会いに行き、とにかく頭を下げ謝罪することを最優先させる立場にあったのではないかと思う。

(14)母親も、いたずらをする猫をエアガンで打って退治していた。(※)

(15)前述したように、事件から5年以上経過した時点でもまだ冤罪の可能性にすがっている部分があった。

(16)Aが殺害した山下彩花さんの両親にAの両親は謝罪を行っている。某所の部屋でAの両親が待っていて、山下さん夫婦がその部屋に入ったとき、両親は土下座をしていた。その後、話が始まってもAの母親はサングラスをかけていたという。山下さんが「すみませんがサングラスをはずしていただけませんか」と言うとはずしたそうである。気が動転していたこともあるのかもしれないが、謝罪時にサングラスとは・・・。サングラスをはずした後も母親はずっとうつむいたままだったという。

※(14)は「「酒鬼薔薇聖斗」への手紙-生きていく人として」からの引用。本の中で又聞きの話、であることが分かるように書かれている。この例以外にも、この事件に関しては、かなりの伝聞情報が確認も取られないまま、伝言ゲームのようにして広がっている。私の文章に書かれている情報も、最初の方で示した書籍の中からの引用であり、Aの両親と被害者の両親の手記を除けば、中には誤った情報もあるかもしれないことを断わっておく必要があるだろう。

これらの他にも多々指摘したい箇所は多々ある。挙げていくときりがないが、だからと言ってこうしてして挙げてみた一つ一つだけをとり出して眺めてみれば、あれほどの事件が起きるだけの決定的な影響となったと考えられるような異常があるかというと、それにはどれもあてはまらないようにも思う。一つ一つを切り取って見れば、この例の中のいくつかに関しては、普通とされる範囲の親にも見当たる程度の異常であるようにも思えてくる。

例えばヒトラーの「我が闘争」を子供に買い与えたからといって、必ずしもその子供が将来凶悪な犯罪に走ることはない。ヒトラーを反面教師としてナチスドイツの失敗から教訓を学びとる子供もいるだろう。

<典型として連続している>

Aのような資質を持っている子供は稀であると思うし、これくらいの間違えた育て方をしたり、親がずれていたりしても、Aのように凶悪な犯罪者になってしまうことも稀であると思う。

前々回のコメントでaruさんが指摘してくださったように、この事件はレアケースである。しかし、この事件を特殊であるということで片付けるべきではない。この事件はaruさんがおっしゃるように「ある種の発達障害児の典型例」でると同時に、「子育て失敗の典型」なのである。殺人事件という結果のみの話ではなく、発達障害をもった子供のみの話ではなく、あらゆるところで起きている子育ての失敗現象にこの事件はつながっていると思う。

<ニュートラルな視点で>

ところで少し話がそれるが、凶悪犯罪だけを見れば、1963年がピークで今はむしろ減っているというデータもあるそうだ。それを理由にこの事件に続いて頻発した少年の凶悪事件に対して、騒ぎ立て過ぎではないかという意見もある。そう言われるとフーンと半分納得してしまいそうになることもあるが、そうだろうか。1963年頃の事件と現代の事件にはどんな質的な差があるのかが十分に吟味されてはいない。1963年の社会事情・個々の事件の事情をはっきりさせないまま、1963年のデータを引き合いに出すことはどうなのだろうか。40年以上前の殺人事件と現代の殺人事件を同列に語ることはできないだろう。数字ももちろん参考ににながら、事件の質や事件と社会との連続性を問題にする作業が必要なのだと思う。ニュートラルな視点に立ち、ある時は俯瞰し、ある時」はミクロの距離から凝視して考えていく必要があると思う。

 






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Last updated  Jan 19, 2009 11:24:53 PM
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