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カテゴリ:その他 雑多
子育ては「折に触れ」と言われるように、時々の、一つ一つの親の対応の積み重ねである。一つ一つが少しずつずれていれば、ずれとずれが相互作用を起こし、いつの間にか子供がとんでもない地点へと導かれてしまうこともあるだろう。この事件でも「ずれ」はまともな方向に修正されることがなかった。どこかがずれたままで、ずれはさらにずれを生み、子供をとらえ損ね、子供と向かい合い損ねてきてしまったのではいだろうか。この「ずれ」がひびいたことは間違いないと思う。母親の直線的な言動と、父親の影の薄さが気にかかる。 <直線的な母親の行動> Aの母親は真面目で教育熱心であった反面、行動が直線的で、自意識が強い面も感じられる。手記の中で「弁解の余地はない」と言いながら、言い訳じみた文面も多く見られる。自分の教育が間違いなかったことをアピールしているような箇所や先に挙げたような配慮に欠ける表現が散見され、自意識の過剰な面が透けて見える。 繰り返し述べることになってしまうが、どうしても私にはAの母親に「独特の気質」があるように思えてくる。 前のエントリーで述べたものに「少年A」14歳の肖像」からもう少し拾って、Aの母親の普通でなさを書き加えてみる。 (17)中学2年生の時、同級生の友人と4人で同級生の女子生徒をいじめ、登校拒否に至らせている。この時、息子たちに事情を聴くために4人の母親たちが集まる。Aは何が原因でそうなったのかを母親たちに理路整然と語ったという。その傍らでAの母親は満足げににっこり微笑んでいた。 (18)中学3年生の時、生徒指導の教師が6年生の次男の春の運動会の応援に来ていたAの両親をわざわざ訪ねてきている。「A君が友達の××君と一緒に煙草を吸っていたので注意したんですが、友達が一緒にすっていたと認めているのに、A君は吸っていないと言って謝ろうとしないんです。告げ口をされたと思っているに違いありません。くれぐれも仕返しをしないよう、ご両親の方から注意してほしいんですよ」とのことである。父親は「わかりました」と短く答えたという。短くである。両親はどこか他人事のような表情を浮かべていたという。おそらくこの時点で教師はもう既に彩花ちゃん殺害の通り魔を少年Aと読んでいたに違いない(学校・生徒間ではAの異常については早くからかなり強い認識があったようである。淳君殺害犯がAであるということも含めてずいぶん噂が立っていたそうである)。教師の緊迫感に両親は気が付いていなかったわけではないと思う。Aへの不信を募らせる学校に対して、その不信感や緊迫感に気付きながら、両親は思考回路を固く閉ざすことによって現実逃避をしていたのではないか。私は経験上、そう思う。 (19)淳君殺害の10日ほど前にAは親しくしていた友人に殴る・ナイフで脅すなどの暴行を加える事件を起こした。友人はあまりの恐怖に転校している。この事件をきっかけにAは不登校となる。手記や逮捕後の供述では母親はその成り行きを冷静な様子で書いたり話したりしているようだが、実際はかなり感情的に学校に食ってかかっていたようである。「息子は学校が嫌いです。小さい時私がきつく言いすぎましたし、先生方にも厳しく指導されすぎたからです・・・・」などとまくし立てるように話したと書かれている。 高山氏は「少年A」14歳の肖像」の中で、この他にもたくさんAと家族の普通ではない行動を描いている。ところが母親は「『少年』Aこの子を生んで・・・」の中では自分たちの"気付かなかった愚かさ"を認めながらも、さらりと流している。読み比べてみると何が真相であるのかわからなくなってくる。この2冊以外の本で、Aの家族に関する情報も加えて分析しようとしても、普通であるような、ないような奇妙さやちぐはぐさに私は戸惑ってしまう。 そしておそらく、A自身も両親の、特に母親の独特の気質には戸惑い、混乱していたのだと思う。もちろん、母親も混乱している。双方の混乱が混乱に拍車をかけていく。 <医療機関には、かかっている> Aは小3で神経科、中1で小児神経科に診察をしてもらっている。事件直前の不登校期には神戸の児童相談所でカウンセリングを受けている。手記で母親はAと自分の子育てをそれほど変わっていたわけではないと言いたげに書きつつも、Aの異常な部分に気が付いていなかったわけではないのだろう。たいていの親は子供を神経科やカウンセリングに連れて行くことには躊躇する。おそらく母親には切羽詰まった心理状態があったのだろう。 Aに特有の発達障害が影響していることも間違いないようだ。中学1年生の時に小児神経科を訪れた時には「注意欠陥・多動性障害(母の手記には注意散漫・多動症)の疑いがある」(現在ならADHDという診断名を聞かされていたかもしれない)と診断を下されている。おそらく、Aは人とのコミュニケーションを上手にとることができなかったのではないだろうか。当時は発達障害の子供やその家族への接し方がまだ十分に研究されていなかったために、せっかく医療機関に足を運んでも医療機関側も、十分な対応ができなかったのではないだろうか。ましてや親が十分なアドバイスを受けることもなく発達障害のある子どもに的確に対応するというのは実に難しいことである。その意味では全責任を家庭に背負わせることは酷であるような気もする。
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