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カテゴリ:その他 雑多
<マザコン> Aは母親への憎しみを語る一方では、精神鑑定の時などに、 「僕はマザコンだった時期がある」「母を必要以上に愛していたというか、僕のすべてでした」「母以外の家族は、それほど大事ではない」 とも話している。これも「ずれ」なのである。母子とも、お互いを愛していながら、コミュニケーションはどこかでずれていて、サイン(言葉のみではなく、行動も含めて気持ちは伝わる)を伝えるということにも受け取るということにも失敗をしてしまっている。 少年院では、母親を「かわいいブタ、死ね」というように表現したことがあるそうだ。これをA自身が 「"かわいい"っていうのはその通りなんですよ、ほんとに可愛らしい感じの母なんですよ。"豚"というのは、母の体格そのものを示してるんです。だから僕ね、ちょっと冗談なんですけど、母が作業やってるとき、後ろから隙を窺っていきなり思いきりケツを叩くんですよ、バチーンと。それで思いっきり逃げるんですよ。"死ね"っていうのは愛憎で、憎しみという部分だと思うんですけど、その部分についてやっぱりほんとに""っていうイメージしかない・・・」 と説明している(「少年A矯正2500日全記録」より)。母親に対しては愛憎が混じり合った複雑な感情があり、Aは自分のそんな感情に戸惑っていたのだと思う。 <上滑りする愛情> Aが母親を愛していなかったわけではなかったのと同じように、父も母も、Aへの愛情はちゃんとあったのだと思う。 父は幼いころのAをよくあやしていたようだ。仕事漬けになるなどして家族との関わりを一切持たないというタイプではない。ところが、子供たちの成長とともに、家庭の中で影が薄くなり、家族との交流がなんとなく置き忘れたままにしてしまっていたような感じがある。こんな父親は特に珍しくはない。 母親も、育児放棄をして遊び歩くというようなタイプではない。主婦としての役割をきちんと果たそうという努力をしていたのではないかと思う。ただ、子育てにおいて、「こうすりゃいいだろう」「こんなもんだろう」といった思い込みがあったのではないかと感じる。根拠のない自信とも言えるかもしれない。子供のためということをかんがえながらも、どこかやっていることが自分本位であったり、自己満足的であったりしたのだろう。「こんなもんなんだろう」と、体罰を加え、「うまくいっている」と自己満足してしまう。子供をペットのように「自分のためにある存在」と思って関わってしまうと、本当は子供に対する愛情があったとしても、愛情を受け取る子供側にしてみれば安っぽい愛情に見えてしまうこともあるだろう。 愛情はなかったわけではないのに、上滑りしたままになってしまった。その上、母と子の互いがコミュニケーションをうまくとることができない気質であったがために、母親は、AのSOSをキャッチできなかったのだろうし、それに応えることも下手であったのだと思う。 Aにしても、そんな「母親の下手な愛情の在り方」を見透かすことはできていても、自分なりに解釈を加え咀嚼していく心の余裕・環境的な余裕がなかったのだろうと思う。 「透明な存在」と自分を表したように、Aは深い絶望にあったのだろう。周囲と違う自分、自分を抑えられない自分、人とのつながり方がわからない自分・・・・自分に戸惑い、母に戸惑い。次第にどんどんと自分も、家族も、学校も、社会も、特異な気質を持つAを支えることができなくなってしまったのだろう。
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