<家庭の不全---家庭では自力で解決できない>
このシリーズ、ここまでで文字数が25000を超した。最終で32000字ほどになる予定で、改行なしでも原稿用紙80枚分になる。私がこのように長々とAの家庭がずれていることを書き、知人の家庭まで引き合いに出して指摘してきたのは、家族の「どうにもならなさ」を明確にしたかったからである。やさしくまじめな知人の家庭でのしつけでさえどうにもならない現代家庭の子育て不全。ましてやAの家庭が当時の環境の中で、どうにかなったとは思えない。A本人にも、家族にも、どうにもならないままずるずるとあの事件へと引きずられていったのだろう。
家庭という密室の中でどうにもならない子育て不全が広がっている。
この「どうにもならなさ」を前提にすれば、
(1) Aの家庭は密室化しており、ずれを自力で修正することは無理だっただろう。→→→「親が悪い、子が悪い」と言っていても、仕方がない。
(2) Aの家庭と同様に、多くの家庭が密室化しており、ずれを自力で修正することが無理になってきている。→→→「親が悪い、子が悪い」と言っていても、仕方がない。
という考えに至らざるを得ない。「親が悪い、子が悪い」と言って行き詰っていては、このまま家庭の不全が広がっていき、結局は社会全体が不全状態に陥っていく。不全に陥っている家庭を非難しているだけ、おかしな子供や家庭の排除を唱えているだけではどうにもならない。家庭の自助努力など期待していても仕方がない。家庭の不全という問題についての対策を考え、具現化していくこと。「だから、どうする?」を考えなければならない。
では、だれがどうすればよかったのか。親にも子供にもどうすることができない場合には、どうすればいいのだろうか。
まずとりあえずは、学校には何かができただろうか?医療機関には何かができただろうか?について考えてみたい。
<学校は対応できるのか>
私は教師という立場であるので、本来ならこの事件のことは学校側の対応がどうであったかということにもたくさんのページをさきたいところである。事件の舞台となった小中学校にはもちろん責任があるだろうし、学校教育全般にも責任があったと思う。もちろん、教育に携わる者として、私自身にも責任を感じている。しかし残念なことに、学校がどうであったのかは、情報が混乱しすぎており、実に書きにくい。
事件発生からAの逮捕後しばらくの間、メディアは学校で体罰があったのではないかと考え、躍起になって体罰に関する情報を入手しようとしていた。Aが学校への恨みを持っていたことは間違いない。「schoolkill」と名乗った犯行声明文の中にも、供述の中にもそれが表れている。そのためメディアは中学校での体罰を確信した。メディアや評論家はそれぞれの「学校の体罰原因論」という持論に今回の事件を当てはめようとさらにヒートアップを見せる。友が丘中学校の岩田校長の態度についてもさんざんバッシングをしていたのを覚えている。ところが後に体罰がなかったことが確かめられ、「学校悪者論」はいっせいにトーンダウンする。マスコミの「期待」は裏切られてしまう形になった。
そういった経緯もあり、多井畑小学校や友が丘中学校が実際どんな様子であったのかは非常にわかりにくい。学校として表に出てくるのは風変わりなところのある岩田校長ばかりで、子供や教師の様子については、伝聞情報として不確かすぎる言葉が漏れてくるばかりで、非常に判断しにくいというのが実情である。友が丘中学校と多井畑小学校の職員には箝口令がしかれていただろう。Aと学校がどうであったのかは、もう少し多くの確実な情報がない限り、推論で書くのを控えておこうと思う。推論の話を始めたり、教育全般を語っていたりすると、とんでもない長文になってしまう。今回のシリーズは家庭に話の中心を置きたいので、学校に関して長々と書くのは避けたい。
というわけで、以下は控えめに学校サイドに関することを書いてみた。
学校側は小学校時代からAの異常についての危機感を持っていたようである。
色々な情報を総合して考えると、Aに対する伝説や風説は相当生徒や教師の間で小学校時代から話題になっていたようである。この事件の時も、メディアが当初から「中年の男」を追いかけていたのに対し、学校ではAが犯人であるという噂が絶えなかったようである。彩花さん殴打殺害事件の前に他の殴打被害者は友が丘中学に「殴打した犯人が友が丘中学校の制服を着ていたという被害者証言があるのでおたくの生徒の顔写真を調べさせてほしい」という訴えをしているのである(個人情報保護の理由で中学校側は拒否)。当然中学校は通り魔殺人の件についても相当な危機感を持ってAを観察していたに違いない。彩花さんと淳君の事件の間である4月の時点で、前述したように中学校の生徒指導担当がわざわざ次男の春の運動会を観覧中であった両親を訪ね、Aへの注意を促しているのである。生徒指導はその時の両親の反応の薄さにひどく落胆したらしい。
そんな状況を想像していると、学校は、あるいは教師である自分は、この事件に対して何をできただろうかということを私はよく考えてしまう。生徒全体やAやAの家庭にどんなふうに関わればよかったのだろうか。自分もかなり難しい子供に関わったことがある。実際のところ、学校内でそんな子供に関われることには限界がある。それで、そんな時は家庭にも関わろうとするのだが、家庭というのは密室であり、第三者が介入することが難しい。というか、普通は第三者が介入できない。学校という立場では踏み込みづらい領域があり、歯がゆい思いをすることは少なくない。明らかに発達障害を持っているような子供を担任しても、親にカウンセラーや医療機関を勧めることさえままならないのが現場の実情である。担任も学校も孤立している。相当切羽つまった状況に陥った時点であっても、カウンセラーや医療機関を勧めることによって親が猛烈な拒否反応を示し、その後の対処をしていくことが困難になる恐れがあるからだ。
教師にできるのは、本人や回り(クラス)の子供たちを学校の中で変えていくことから始めるのが精いっぱいというのが現実だろう。なんとかそれができれば、親も少しは聞く耳を持ってくれるようになる。逆にそれができなければ家庭に踏み込んでいくことは非常に難しくなってしまう。多井畑小学校や友が丘中学校には、Aやまわりの子供たちを変えることができなかったのだろう。最悪の結果に陥ったことから考えれば、教師たちは力不足であったことになる。しかし、それぞれの教師にそれぞれの限界がある。学校に万全を期待しても、正直なところ力不足であるし、この巨大な組織が短期間で変化することは難しいというのが現状であろう。
ただし、時間はかかるにしても、この学校という組織のレベルはもともとかなり低いので改善可能な点はたくさんある。組織として大きいだけに、学校をうまく改善ができれば、影響を及ぼす範囲も大きい筈である。そういう意味では期待が持てるかもしれない。