テーマ:父の思い出(1)
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肺炎と診断され昨年12月に入院し闘病生活を続けていた父でしたが、2月19日午後11時27分に天国へと旅立ちました。91歳でした。20日21日の2日間は仮通夜、22日に通夜、23日に無事葬儀を終えましたので報告致します。お悔やみの言葉を寄せられた皆様に心より感謝申し上げます。
父は努力家でもあり多趣味でもありました。下の写真は「札幌国際スキーマラソン」に一般参加した時のものですが、この時父は63歳でした。63歳のこの年には運転免許証も取得し90歳になろうかという時期まで運転していました。現在の私が63歳ですが、そう考えると父もエネルギッシュだったんだなと思いますね。 写真を撮ることも若い頃からの趣味で、子供たちの写真を撮っては自分で現像していました。小学生の頃に「暗い押し入れに入ってゴソゴソしている父の姿」に奇異な感じを受けていましたが写真を現像していたんですね。60歳を超えてから本格的に写真を始め、様々なコンクールに応募しては入選もしていました。 俳句も若い頃からの趣味の一つで「草心」の名前で活動していました。また音楽にも興味があり村の若い人たちとバンドを結成し、村での行事があるとその腕を披露していました。多趣味ですから定年退職をしてからも活動的でしたが、村の教育委員長をしたり村議会議員も長年に渡ってしていましたね。その他、様々な会のリーダーなどもしていました。
父の思い出で一番衝撃的だったのは「戦争体験」を語った時でした。何度か体験を聞かされたのですが、今思うと「戦争の悲惨さを知って欲しい」という思いが強かったのではと思います。 父が中国大陸を転戦していた頃は敗戦濃厚の時期で「戦う」というよりも「逃げ回る」という表現がピッタリだったと言います。ソ連軍が侵攻してきた頃は逃げることも叶わず死を覚悟したそうです。追いつめられて倒れたところをソ連兵に銃剣で胸を突かれそうになり「自分の人生はこれで終わった」と思ったそうです。しかし、ソ連兵は殺すのを止め捕虜となり、その時に「助かった」「これで生きて日本に帰れる」と思ったそうですが、実際にはそれ以降に過酷な運命が待ち受けていました。
捕虜となった後は極寒の地ハバロフスク収容所に送られ強制労働に従事しました。貧しい食事だったのですがそれさえも同じ日本軍の階級が上のものにピンはねされたりしたそうです。栄養不足と厳しい寒さそして辛い肉体労働の中で次々と仲間が倒れました。収容所では多くの人たちが、日本へ帰る夢も叶わずシベリアの地に骨を埋めたのです。 父が出征する時には婚約者がいました。恋人の「生きて帰ることを信じていつまでも待っています」との言葉に支えられて生き抜いたそうです。生き抜いて日本の地に辿り着いた時、真っ先にその恋人に会いに行きました。家を訪ねた時に、その恋人は子供を抱いて出てきたそうです。何年も生死不明の状態だったので待ち切れずに結婚していたんですね。父は何も考えられず将来への夢も希望ももてず、ただただ「頭の中が真っ白になった」そうです。戦後はこうした悲劇がたくさん生まれたのでしょうね。
今は父があの世で安らかに眠られることを念じています。91年間の波乱万丈の人生、大変お疲れさまでした。ゆっくりとのんびりとお休み下さい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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