さて、
今日は2月25日。
中国の当時の最高指導者・トウ小平氏が亡くなったという現地報道が流れたのが1997年2月20日、10年前の2月25日は国葬の位置づけに近い「追悼会」というものが北京で行われた日です。当時の記録を個人的に残していますが、この年の春節は2月7日(この頃も実質1週間は休みになっていましたが、北京市政府の通達が出るまでいつが休みになるかは直前までよくわかりませんでしった)、旧正月も一段落して仕事の方も通常の状態にすでにもどっているような時期でした。
トウ小平氏死去から10年ということで産経新聞の伊藤正さんが継続して連載記事を書いておられます。いろいろな当時の内情が記されており、大変興味深い内容だと思います(URLは
こちら)。
このようなちゃんとした話とはまったく比べ物にならないレベルの低い下世話な思い出話ですが、私にとってはこの2月25日という日は忘れられない悪夢の日になりました。この日が「追悼会」でなければ、こういう事件は起こらなかったので、ある意味歴史の区切りの日として思い出すたびにこのことを昨日のように思い出す次第です。あまり読んでも面白い話ではないかもしれませんが、すべて事実に基づくフィクションです。一言で言ってしまえば、強烈な「ぼったくり」に遭ったという話です。このブログを始めてから、実はこの日の来るのを待っておりました。
1997年2月25日は火曜日でした。私のいた駐在事務所はいつものように日本から来るたくさんの出張者のアポのアレンジやら打合せへの出席やらで忙しくしていました。この日も東京から頻繁に出張で来るS部長とT係長が某地方都市から朝に北京入りしていて、昼間は確か中国側と半日くらいの打合せをしていたと思います。すでに「追悼会」が北京で開催されることは数日前に決まっており、街中も華美なものをやめ、追悼する雰囲気が漂っていたかと思います。テレビではその「追悼会」の模様が流されていました。いつもの日より静かな一日だったことを記憶しています。
通常、日本から出張者が来ると、中国側との宴会などイベントがなければ、出張者と日本風居酒屋で一杯やるということが多かったですが、その日は「追悼会」ということもあり、中国側との宴会はなし、内輪でいつも行く居酒屋でS部長、T係長とうちの事務所のH所長、M課長、T課長、K係長と私というメンバーで飲んで盛り上がっていました。
その後、内輪の飲み会は終わり、年配のH所長とM課長は帰宅しましたが、S部長は日本側の総責任者の部長ということもあり、せっかくなので「もう1軒お連れしようか」ということで、よく常連で使っていたカラオケ屋に行こうということになりました。この日は事前に「追悼会」で各種自粛ムードであることはわかっていましたが、とりあえず1軒目の店に行ったところ、その自粛日ということで営業しておらず、そのほかに行きつけのあと2軒くらい回ってみましたが、それも自粛中で休業。
さすがに「追悼会」の日なのでしょうがないかと思って、K係長が「じゃあ自分の家で少しやりますか」と言ったのでそうしようかと、最後に回った店があったHMLホテルの前でそのようにS部長にまさに話をしようとしたところ、うちの事務所のC運転手が別のタクシーの運転手らしき若い男から「○○という店が開いている。大丈夫。」という話を聞いて、タクシー運転手について、そこへ行こうということになりました。
私や他の駐在員始め、夜のこういう世界は仕事柄結構いろいろな経験をしているので、安易に行ったこともない店に行くことはありませんでした。C運転手は彼自身も政府関係でも働いたことのあるベテラン運転手だったのですが、「自分の友達の運転手が言っているから大丈夫」ということでみんな信用してしまいました。自粛日でしょうがないからとりあえず行ってみるかという安易な気持ちが魔がさすことにつながったんだろうと思います。
前置きが長くなりすぎましたが、カラオケ屋での悲劇は明日に続く・・・
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