カテゴリ:百二十五年物語
妻と3人の娘を結核という病でなくしたわが祖父清吉。 どのような気持ちでその時代を生きていたのだろう。 あの優しい祖父のことを知っているだけに これを書きながら涙があふれてきてとまらない。 清吉がなくなってから48年。 2010年7月の西国の陽射しは相変わらずまぶしく美しい。 話を先にすすめる。 年令で計算するとき、ややズレが生じるのは 数え年で年令をいってたことによるものなのかもしれないし、 単にぼくの認識のちがいかもしれないが 細かい数字にはあまり重点をおかないことにする。 祖母ツナと祖父清吉が出逢った時期に想いをはせているのだが、 1920年前後ということにしよう。 祖母ツナについては後日書くのであるが、軽く触れておく。 生まれは佐賀県伊万里市。 ぼくの生家がある場所が祖父の生まれた地である。 そこから何故大連に行ったかというのは母から聞いたのだが 祖母の姉が大連で子どもを生むにあたって 姉の身の回りの世話のために大連に行ったのだそうだ。 交通手段は何か? 伊万里市瀬戸町に住み漁師をしていた兄の舟で行ったそうである。 あの小さな櫓こぎの舟で行ったことを想像するだけで 明治、大正の日本人のたくましさには圧倒されてしまう。 どういう形で祖父と祖母が出逢ったかはわからないが 母の話によれば 祖父が祖母に惚れたということらしい。 二人の年は12才か13才はなれていた。 上の写真をみると恋愛結婚だったのだろうか? ふたりはすごく似合ってるような気がする。 これは孫(僕のこと)の贔屓目なのかもしれないが。 そして、清吉とツナの間にふたりの男子が生まれる。 長男又衛(またえい)が1922年に生まれ 次男比古太(ひこた)が1929年に生まれている。 大正時代祖父と祖母は出逢い、結婚し、長男又衛に恵まれ 昭和のはじめに次男比古太にも恵まれ幸せな時間だったと想像する。 比古太が生まれた年が世界恐慌の年であり、 世界はやがて戦争へ戦争へと向かっていくことになる。 つづく。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年07月09日 15時48分47秒
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