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百二十五年物語

百二十五年物語

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2010年07月11日
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カテゴリ:百二十五年物語
四人2

大連時代の写真はかなりの数が残っている。

引き上げの際、親父ががんばって運んだと聞かされている。


清吉にとって、

1920年前後から1940年くらいまでの20年間は

幸福な時代だったのではないだろうか。

上のような写真を見ても裕福な幸福そうな家庭に見える。

祖父、祖母、伯父、父

こうした4人の写真をながめるだけで

この時代に思いをはせてしまう俺がいる。



親父から聞いた話をすこし。

清吉は骨董品が好きで、親父を連れて

中国人の市場みたいなところへ休日出かけたそうだ。

清吉は英国風の帽子をかぶり

高級なコートを着て

ステッキを手に持って、実にお洒落だったそうだ。

ちなみに引き揚げるときも手にはステッキだけを持ち

「何も要らん!」と言って引き揚げてきたそうである。


好もしい骨董品をみつけると

ステッキの先で「これ」というだけで

リヤカーで運搬する人を雇ってその人にどんどん積ませていたそうである。

自宅に持って帰り骨董品を洗って干したりするのは

親父の役目だったそうである。


おれが生まれて7年間祖父清吉と過ごした家は

築150年とも200年ともいわれる古い家だったから

その時代の祖父からは想像できないのだけど

祖父は異常な潔癖症だったらしい。


親父によると

清吉とふたりでうどん屋にいくのが苦痛だったそうである。

なぜかと言うと

「比古太!丼に口をつけずに汁を飲め」

と言われて閉口したそうである。

具体的には、下唇を内側にして

下唇の下のところを丼のふちにあてて飲めと言われたそうだが

熱くて熱くて、清吉が見てない隙に

親父は一気に汁を飲んでいたそうである。


そんな幼児期体験の反動からか

親父は俺をチャンポンやラーメンを食べに連れて行くたびに

清吉の話をしながら、美味しそうに食べて

俺には「麺とスープとどちらが値段が高いと思う?」などと問いかけながら

スープの最後の一滴まで飲み干すのがラーメンやチャンポンを

作ってくれた人に対する正しい生き方だ!とほざいていた。



伯父又衛は青島大学医学部を卒業し外科医になった。

伯父は26才か25才で亡くなっている(結核により)ので

医者としての期間は短かったんだと思う。

7才年下の親父は

勉強はできなかったのでお金の力で

慶応義塾大学の歯学部を卒業して

歯科医になるというのが祖母ツナの考えだったそうである。

四人

祖母ツナの夢は

あの世界大戦によって粉々に砕かれて

生まれ故郷の佐賀県伊万里市で晩年を過ごすことになる。



さて、次回からは「ツナの人生」について書こうと思う。


つづく。









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最終更新日  2010年07月11日 18時46分04秒
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