カテゴリ:百二十五年物語
祖母ツナは72年間(71年間かもしれない)のうち 何年間を大連で過ごしたのだろうか? 長男又衛が25才か26才で亡くなっているのだから おそらく25年~30年間、大陸で暮らしていたんだと思う。 おもしろいのは その間に、ツナを頼って 楠久津村からツナの親戚のものたちがたくさん 大連へ渡っているという事実である。 キンズシのサヨコおばちゃんの若い頃の写真を見せてもらった。 満州鉄道で列車の女給さん?ウウェイトレスみたいな 仕事をしているモダンなサヨコおばちゃんの姿があった。 ほかにも俺の知らない人たちが大連に就職を求めて渡ったそうだ。 ツナを頼ってだが 仕事を紹介するのは清吉だったそうである。 清吉が満鉄の中でどういう役職だったかは知らないが 人事に関してもかなり力をもっていたと サヨコおばちゃんは話してくれたことがある。 ツナの友達について知ってる限りを書き記す。 おタツおばさん。 バンシャンハタ(番所ノ端?)の海辺に家があった。 おタツおばさんは背が高く大柄な女性だった。 ツナよりも年上だったと記憶している。 幼い俺をつれておタツおばさんの家にはよくいった。 青い火鉢があって その火鉢をはさんでふたりで語り合う午前中。 俺は退屈で退屈で火鉢のまわりをうろうろして やがては「帰ろう、帰ろう」とダダをこねていたのかもしれないが ダダをこねた記憶はない。 火鉢のそばでミカンをよく食べた。 食べ物の記憶って結構残っている。 おフミおばさん。 有田に住み、有田焼のお店を営んでいた。 楠久津の我が家にもよく遊びに来ていた。 派手な服装でお金をもっているおばさんのイメージがある。 有田焼で儲けていたのだろう。 当事は既におフミおばさんの息子たちの代になっていた。 大きな家だった。 ツナにつれられ泊まりにいってた。 秋だったのか、大きな甘い葡萄を食べた。 今で言う「巨峰」だったのだろうか? それまでには食べたことない甘くて美味しい葡萄だった。 おフミおばさんは金持ちなんだなあ~と こどもごごろに葡萄を食べただけで圧倒されてしまっていた。 おキヌおばさん。 佐世保に住んでいた。 遊びにいった記憶がある。 おキヌおばさんはツナの姪にあたるのかな? サヨコおばさんの姉さんだったと思う。 昔の人の兄弟姉妹関係は複雑でわかりにくいんだよね。 サヨコおばちゃんやミエコねえちゃんと ツナとぼくで「山代座」にはよくいった。 美空ひばりの道中ものの映画がほとんどで 俺はただついていくだけって感じだったが、 帰りの夜道の暗さは幼い俺にはスルル満点だった。 特に、佐賀銀行楠久支店前の大きな溝が 怪獣の口のように不気味で恐ろしかった。 ホタルを四軒屋(荒熊稲荷神社のそば)に見に行ったことがある。 ホタルを見てみんなが感激の声をあげて喜んでいたが 我が家の清吉&比古太手作り露天風呂から ホタルなんて日常的に見ていたので俺は感動しなかった。 ミエコ姉ちゃんか誰かが田んぼに落ちたことのほうが よほど鮮やかに記憶に残っている。 昭和35年前後の頃の出来事である。 昭和35年といえば、1960年。 ツナ62才か63才。俺5才。 父比古太が31才、母千鶴子28才のことである。 清吉75才。 もっともしあわせな時代だったと思う。 テレビも冷蔵庫も掃除機も何もなかった。 電気製品はアイロンとラジオだけだった。 家族5人の我が家は絵に描いたような昭和を暮らしていた。 当時の頃の様子を思い出して昔、歌を作っている。 「風鈴」という歌です。 風鈴 縁側で 孫ひざにだき おじいさん 真っ赤な夕焼け ながめているよ かたわらで ウリの皮むく おばあさん 甘い香りがしています チリリン チリリン 風鈴なってるよ チリリン チリリン 風鈴なってるよ 浴衣着て 庭に水まく おとうさん まだまだ咲かない 月見草 なつかしい歌を歌って おかあさん チリリン チリリン 風鈴なってるよ チリリン チリリン 風鈴なってるよ チリリン チリリン 風鈴なってるよ チリリン チリリン 風鈴なってるよ (1977・6・4) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年07月31日 15時25分50秒
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