カテゴリ:百二十五年物語
祖母ツナとぼくが過ごしたのは14年半だった。 その間の記憶にのこっていることを少し話したい。 同じことをくりかえすことになるかもしれないが そこは気にしないで繰り返し書くことを自分に許します。 祖父清吉が生きているときは、 二階の和室北側6畳か8畳が3人の寝室だった。 3人とは祖父、祖母、俺。 で、祖父が亡くなったあとの記憶は 下のテレビのある部屋がぼくと祖母の寝室だった。 祖母が南側で隣のテレビに近いほうがぼくの布団だった。 あれ?あの部屋は食事をする場所だったけど 布団は毎日、あげさげしていたのかなあ? 昔は台所が土間で 昭和38年までは水道もなかったから おふくろが水汲みをしていたが、 台所を増築して居間とつないだはずだ。 で、食事の場所は、板張りの狭いところ 柱の傷はおとつぃの~♪があった柱の南側になって そこで食事をするようになったんだ! すごい記憶力だ! 書きながら気づいたんだが、 祖父清吉は水道を知らないまま亡くなったんだ。 祖父との思い出がむくむくとわいてきたが 今夜は祖母との思い出だ。 祖母の話は伯父又衛のことばかりだった。 幼いおれは気づかなかったが 親父比古太の話の100倍は又衛の話を聞かされたと思う。 医者にまでなった長男又衛は祖母の自慢だったんだろうと今は思う。 7才年下の比古太が生き残ったことが不満だったわけではなく 戦後の暮しを支えてくれるであろう伯父又衛の死は 祖母にはかなりこたえたのであろう。 又衛が亡くなっているのは昭和22年9月26日。 その8年後に生まれた俺を そしてたったひとりの孫を優しく可愛がった祖父。 しかし、祖母は違っていた。 俺の誕生に再び又衛に抱いた希望を感じたのだろう。 スタインベックの「怒りの葡萄」もそうであるが 男は人生をどこかで投げるというか捨てる。 それが祖父清吉の戦後だったとするなら、 女は人生を最後まで捨てない、諦めない。 それが祖母ツナの戦後のさらなる戦いだった。 ニワトリの卵でコツコツ小銭をため、 父比古太と母千鶴子の安い給料を全部管理し、 孫(=俺)の教育も祖母が管理していた。 小学校に入学するときにはかけざん九九を丸暗記させたのも祖母。 文字を大きくきれいに書くように厳しかったのも祖母。 テレビの時間を厳しく管理し、勉強について口出すのも祖母だった。 山代東小学校で、俺は祖母のイメージでは1番の成績でなければ 祖母のプライドが許さなかったのだろうと思う。 ところが、皮肉なことに俺の家の三軒先にカツが生まれて 俺とは4才で親友になり、 こいつが完璧な神童だった。 俺も神童だったがニセ神童だった。 ひとつの村に神童は普通ひとりで十分なのに。 神様は試練をくださった。 俺に試練はなかったが、祖母には試練だったと思う。 カツにはどこまでいっても勝てなかった。 やがて、勉強にうるさく言う祖母と俺の対決時期がくる。 俺の第二反抗期(中学生になってから激しさを増した) そんな反抗期の最中に祖母は死んでいったので、 俺のこころは複雑だったことをかすかに記憶している。 でも、熱を出して寝込んでる俺の額にてをあてて 水枕を準備してくれたり、氷で冷やしたタオルで 額を冷やすときの祖母の冷たい手には感謝した。 祖母は布団の下に緑色の財布をかくしていたが その財布からはよく金を盗んだ。 10円玉、5円玉・・・ わからないように盗んでいた。 祖母が教えてくれた歌は2曲だけだ。 ♪ここは御国の何百里 はなれて遠く満州に~♪ なんていう題名だったかな? それと ♪柿に赤い花咲く~♪ この2曲だった。 小学生時代はほとんど祖母と二人で風呂にはいった。 カツが遊びに来たときも祖母と3人で風呂にはいってたのかな? もうその頃は、右半身不随から少し回復したころだったかどうかは くわしく覚えていない。 祖母の白いお尻と垂れ下がったおっぱいは鮮やかに覚えている。 おばあちゃんと二人で風呂にはいって いったいどんな会話をしていたんだろう? 「早くぬくもりなさい!」とか 「はい、首の下を洗って!」とか言われてたのだろうか? 祖父との風呂は露天風呂時代でホタルが舞ってた記憶があり、 俺を抱きしめて微笑む祖父清吉の姿が思い浮かぶ。 父比古太との風呂では、タオルで空気風船を作って オナラのような音をだすのが親父の数少ない技だった。 祖母とのお風呂は、曇った窓に漢字を書いて 何と読むかとか常に向学心あふれる時間だったような気がする。 母とは一度もふたりで風呂には入ったことがないそうで、 そのことを最近、母から聞いて、 「たったひとつの心残りは、あんたをお風呂にいれてないことだけ」 と言われて、その家族の関係とか慣習とかが自然にでてくるんだと感じた。 つづく。かな? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年08月14日 00時25分27秒
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