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ずいぶん書いていなかった。時間でなく気持ちにゆとりがなかったみたい。きょうは映画を見てきて、久々に何かを書きたいと思えた。きっと新宿というちょっぴり猥雑な空間も元気をくれたに違いない。振り返ってみたら今年は意外に映画館に出かけていた。ここ数ヶ月だけで「ゆれる」「不都合が真実」「カポーティ」そしてきょうは「イカとクジラ」。脈絡がないですか?(笑)。環境のお仕事がらみでみた「不都合な真実」を除くと、ロードショーのうちにぜひ見ておきたいなあ、と選んで出かけた映画はみんな家族の物語。。。
3つ並べて振り返ってみると、どこか壊れてしまってひりひりする家族が登場していることに気づいた。誰もが懸命に自分の人生を全うしようとしているのに、家族という場にあってうまくいかない瞬間が切り取られている。「ゆれる」では、対照的な人生を歩み家族とは無縁の暮らしをしていたはずの兄弟なのに、ある瞬間から互いの人生が深く交錯する。「イカとクジラ」では、10代の子どもが2人いる家族の、まさに離婚で劇的に変わる瞬間が描かれる。「カポーティ」は、やや異色で家族の物語とは言わないのが普通だろう。けれども、この映画はある「完全な」家族が全滅するところから始まり、「壊れてしまった」家族のもとで育った語り手が、同じような育ちをした殺人者の内面へと入り込んでいく。語り手であるカポーティの奥底にある無垢な魂は、おそらく冷酷無比な犯人の中にもかつてあった。2人の人生を分けたのは、家族ではなくほんの一握りの周囲の人々。 たしかに家族は人生に大きく関わりつづける。遠ざかったつもりでもふと関係が蘇る。この関係をほどよいものにするのは意外に大変なのかもしれない。一見したところ完全そうにみえる家族の中にも、必ず暗部が描かれている。たいていは母親が自分の魂を殺している、という設定だ。逆に、母親が自分を生きると家族という形は目に見えて壊れる。(古典的なフェミニストの議論のようだ(^^;;;;;。) じゃあ、真に完全なる家族はどこにあるのか?自分を生きつつ家族を生きる、それは可能なことなんだろうか。みんな模索している。「イカとクジラ」でもその回答は示されず、監督自身の迷いが伝わってきた。私もすっきりとわかりやすい言葉ではなかなか家族を語れない。だからそういう映画を選んで見てしまうのだろう。 でも、現実に私たちはいつも目の前にある出来事に対処して暮らしている。すっきり語れなくてもその都度ちゃんと選ぶことができる限りは続けられる。逃げずに1つ1つ丁寧に関わって、その積み重ねが家族という関係になっていく。とりあえず私はそれでいい、と信じるつもりだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006/12/30 12:35:48 AM
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