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テーマ:『義経』(332)
カテゴリ:出羽国の地名
「義経記」は、室町時代初期に書かれた軍記もので、義経の生涯を中心に描かれている。物語性が強く、歴史書としての信用度はあまり高くないそうだが、この本の中には出羽の国の記述があり興味深いことに今では 聞くことがなくなった地名がいくつかでてくる。その中の清河という川について考えたい。
義経が頼朝に追われ、京都から日本海沿いに北上し、鼠ヶ関(念珠の関)を越えて出羽の国に入った場面。 “弁慶は あけなみ山(特定できず)にかかりて清河へ参りてあふ(会う)。・・・(中略)・・・ 此の清河と申すは、羽黒権現のみたらし(御手洗)なり、月山のぜんじょう(霊山の頂上)より北の腰に流れ落ちけり。 熊野には 岩田河、羽黒には清河とて流れ清き名河あり。是にて こりをかき・・・” とある。 現在、清河という川はないが清川という地名がある。“清川”は最上川と立谷沢川の合流する地区(名)。東西に流れる最上川に北に向かって南北に流れる立谷沢川が“Tの字に合流した地点”のの町だ。しかし、この義経記によると 清河は地名ではなく“清河という川”だったことになる。それは、現在のどの川を指すのだろうか。(清河と清川は時代的な表記の問題で同じものとする。) “月山から北へ流れる川”・・・というと 現在の、“立谷沢(たちやざわ)川”が その条件にあてはまる。 立谷沢川は山形県有数の清流で、月山の山頂から真北へと流れている。まさに、名河で北の腰に流れおちている表現にピッタリだ。結論としては。 昔地元の先生に聞いた話の受け売りにだが、「立谷沢川は昔は”清河”といわれていたので、その川岸の町も清川といわれるようになったと考えられる」・・・となりそうだ。 ところで、羽黒山を登るときには 五重塔の前の”祓川(はらいがわ)”という川の上に架かる赤い橋を渡り、石段を(東側へと)向って、羽黒山の神社へたどり着く。神社を通り過ぎ、さらにさらに東側の方向へ向かって行き山を下っていくと ”立谷沢川(清河)に出るという位置関係になる。 羽黒山には、”諸々の罪穢(つみけが)れ 祓(はら)い禊(みそぎ)て 清々(すがすが)し”という祓詞があるので、羽黒山を中心にして、西側にある川が 祓川で、東側にある川が 清河、だとすれば、道理的で覚えやすくないだろうか。 ちなみに、この清川地区は、幕末の志士、清河八郎(本名は斎藤正明だが、出身地の名前を名乗った)の産まれたところで、戊辰戦争では、庄内藩と薩長連合が、まさにこの清河(立谷沢川)をはさんで対峙し、戦った歴史の里でもある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年01月30日 16時19分27秒
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