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出羽の国、エミシの国 ブログ

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2005年11月23日
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出羽の国と渤海国との関係をみていきたい。

 渤海は、中国の東北地方東部・沿海州・朝鮮北部を領土として栄えた高句麗(こうくり)族・靺鞨(まつかつ)族の国。則天武后の唐に滅ぼされた高句麗(668年滅亡)の遺民によりつくられたとも言われる。

698年に高句麗に属服していた、靺鞨の一部地方出身の大祚栄(だいそえい)が震国を建て
713年に唐により渤海郡王に封ぜられ渤海と称した。唐文化を輸入、日本とも頻繁に通交した。都は国都の上京竜泉府(黒竜江省東京城)をはじめ五京(ごけい/5つの都)があった。
926年契丹(遼(国名)・耶律阿保機)に亡ぼされた。


 渤海国が使節を出羽の国に送るときには、現在、北朝鮮の中露国境で注目をあつめている豆満江から出発したとかんがえられる。
 渤海の使節団が漂着したのは、出羽の国といってもかなり広いのだが、現在の秋田県北部から青森県にかけての地域、能代市周辺のようだ。

 渤海使者の来日記録 少なくとも 34回(公式渤海使・727~930年)の内、
6回(非公式含めると7回)はある。その中で出羽の国の記録だけを抜粋してみた。

1.727年 (1回目): 寧遠将軍ら武人団、夷地(いち)に漂着、16人殺害される。
 残った8人が平城京に入る。
2.739年 (2回目): 大使乗船沈没40人没死。
3.746年 (非公式): 渤海人、および鐵利人 1100人が慕化入朝。
4.771年 (7回目): 福良(吹浦?)で越冬、773年春発。
5.779年 (11回目): 渤海人、および鐵利人 359人大人9隻の船を与えて本国に送還。
6.786年 (12回目):  越前に還し、船と船員を与えて放還。
7.795年 (13回目): 志里波里村 到着。

 出羽の国に着いたのは、日渤交流の歴史約200年のうち 初期のころに集中している。
渤海使のほとんどは、北陸より北の日本海側に到着した。

 特に注目すべきは3回目(746年)で、1100人という多人数が到着したという記録である。
当時の船(遣唐使船)は、大きければ 1隻に100~105人が乗ったとされているので、少なくとも11隻以上の大船団であったことになる。訪問の理由とされる 慕化入朝は不自然な理由だ。目的は何だったのか。
 ”すぐに” または、”779年には 359人を還した”とされているが、その間 33年もあるしどれほどの人が本当に帰っていったのか、さらには、どこに行ってしまったのか疑問、謎がつきない。

 詳細がわからないので、憶測になってしまうが、ほとんどの人が移民が目的であり出羽の国の住民として同化した人も多かったのではないかと思えてならない。
 出羽の国の人たちの先祖に、こういう人たちがいたと考えると、おもしろい。





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最終更新日  2021年12月07日 20時33分56秒
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