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テーマ:本日の1冊(3697)
カテゴリ:出羽国の地名
なにげなく昔からあるものだからとあまり疑問に思わないことは多い。地名もその1つだ。
出羽の国の”出羽”とはどの地域を言ったのか?そんな疑問を昔から持っていたので考えてみた。 ”出羽の国風土記”には 「村里の名より郡名となり、郡名より国号となれる事をいはさる(いうの)はその国の事跡(れきし)をよく考えさる(考えることができる)故(もと)なり」 (山形県出羽国風土記 [ 狩野徳蔵 ]) と、あるように村里の名が広がり国の名になっていく歴史の過程をみれば、出羽の国の名前の由来となるもともと“出羽”という小さな村里があったのではないかと想像ができる。 その場所は具体的にどこだったのだろうか?出羽の国風土記の記述とは逆に、 ”出羽の国”の変革を近代から古代へ広がった地域を逆に絞り込むようにしてたどってみるとわかりやすい。 1868年(明治元年) 12月 :「出羽国」を”羽前国(現山形県)”と ”羽後国(現秋田県)”に分ける。 ( 931年頃(承平年間) :倭名類聚抄 出羽国10郡 /最上郡、村山郡、置賜郡、雄勝郡、平鹿郡、飽海郡、河辺郡、田川郡、出羽郡、秋田郡、 出羽郡5里 /大窪、河辺、井上、大田、余戸) 840年 (承和7年) :「出羽郡」(出羽国)から飽海郡が分かれる。 839年 (承和6年) :「出羽郡」(出羽国)から田川郡が分かれる。 733年(天平5年) :「出羽国」に雄勝郡ができる。 713年(和銅6年) 10月 :「出羽国」に陸奥の国から最上郡と置賜郡を編入(續日本紀)。 712年(和銅5年) 9月 :「出羽国」を置く(北道の蝦狄/司宰をたてる/續日本紀)。 709年(和銅2年) 9月 :「出羽の柵」が置かれ、柵戸の移配がはじまる。 708年(和銅元年) 9月 :「出羽郡」が建てられる。 分かれた郡は出羽という地名の中心地ではないと思われるのでその区域を除くことができるだろう。 出羽が国名として格上げされたあとにも出羽郡の名は残ったこと、旧出羽郡の範囲には出羽郡と田川郡と飽海郡が分立(840年)していたことから、出羽(地区)は出羽国(郡)の内の他の郡が別れた後にも最後まで分割されずにどこか郡の一部としてあったのだろうと推測される。 しかし、だいぶ後の記述になる930年頃(倭名抄 巻7 国郡部12)の出羽郡内にあった、5つの里(大窪、河辺、井上、大田、余戸(辺))には出羽という里名は含まれていなかった。この5里は最上川、立谷沢川、藤島川沿い周辺と推測されているが出羽の地名が消えたことになる。出羽という地名はいったいどこが発祥なのか?少なくとも飽海郡と旧西田川郡、藤島、余目地区を除いた地域、とまでは確実に絞れそうだ。 現在分かっている地名との比定では、出羽と呼ばれる地域は庄内平野の藤島地区周辺に郡が建てられた後、国の地名へと格上げされその後明治まで広い地域を呼ぶ国名として使用されていったと考えられることだ。それより以前には、阿倍比羅夫の遠征(658年)や崇峻天皇が北陸道(越前‐加賀‐越中)、越などの諸国の境などを視察(589年)させたことなどが出羽の国の出来事として記録としてあるが具体的に出羽の国(郡)の様子をうかがえる記述は少ない。 羽黒山の社伝では“蜂子命が諸行遊行中、羽黒山に登拝し、出羽大神の神霊に感応し592年(崇峻5年)この地に出羽大神の祠宇(神社)を建てた“、とされ"出羽"という言葉がでてくる。羽黒山に出羽大神が鎮座していたことになり出羽が地名として古くからあったことが推測される。 蜂子皇子は、月山には月山神社を、湯殿山には湯殿山神社を建てたのだが、不思議なのは羽黒山には羽黒神社を建てないで“出羽神社”として建てていることだ。 出羽神社は蜂子皇子がくる以前の古来よりあって、地元の神、地主神を祀っていたとされる。 単純に考えれば出羽三山の内、月山神社は月山に、湯殿山神社が湯殿山にあるのだから、出羽(でわ)神社は出羽(山)にあるのだろう、と思う。しかし、現在、出羽山という山や地区はない。現在の出羽神社は羽黒山にあるので、羽黒山のある場所は出羽の村里の一部だったか、出羽の村里にとても近い場所と考えていいのではないだろうか。 ”出羽”と”羽黒”を分けて考えることが キーポイントのようだ。 話が複雑になるが、その昔、羽黒山は、“阿久谷(あくや)山”といわれたという言い伝えがある。すると現在の羽黒山(京田川上流)は“羽黒”ではなかったのかもしれない。 それを裏づけるように立谷沢地区(立谷沢川流域)、現在の羽黒山東側には“元羽黒”といわれる場所で、かつて、羽黒の本社があったと伝えられる場所がある。また、須部野(すべの)・皇納賀原(すべのがはら)・統野・皇野(すべの)ともよばれ、蜂子皇子の墓があるという伝承もある。ここが元来、羽黒だったとも考えられる。 今は、田んぼや畑だが室町時代の末までには万納寺という寺を筆頭に500軒ほどの坊舎があったとされる。(ホームページのTop写真は須部野方面を望む) 現在の(元)羽黒山の東側周辺(立谷沢地区)には多くの伝承がのこり、あまり注目されてはいないが、きちんと調査され大切に保存されていかなければならない文化地区の1つと思う。 現在の羽黒山は霊場とか修験場とかいわれる。聖地は阿久谷といわれる谷とされる。出羽神社のあるその周辺は少なくとも古代に出羽と呼ばれていた。また、その周辺に出羽と言われる集落があった。そのような構図がなりたたないだろうか? 出羽は、月山でも湯殿山でもなく、元羽黒山、またはその周辺、現在の羽黒山頂(元のあくや山)周辺の立谷沢、添川、羽黒(手向)地区周辺の地名であっただろう。その辺りにまでは絞れそうだ。くり返しになるが、立谷沢地区(庄内町)はその有力な場所の1つである。 出羽の由来を知りたくて調べ少しは絞れたと思うが、まだまだなぞは多かった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年01月30日 15時53分24秒
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