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テーマ:本日の1冊(3698)
カテゴリ:出羽国の地名
「野見宿禰(のみのすくね)と大和出雲」という本には大和にある、出雲という地名について書かれている。旧国名で“出”という漢字を使うのは“出羽”と“出雲”しかない。何か共通点がないか、“出羽”と“出雲”の国名を比較して謎を探ってみたい。(以下、出雲についての記述はこの本からの引用)
“出雲国”という文字の所見は、島根県平田市にある鰐淵寺観音立像、持続3年(648)/(おそらく誤記で、持統6年(692))の台座銘に出てくるのが初めだそうだ。 “出雲”は、万葉仮名では“伊豆毛”と書かれた。中国から日本に漢字が渡来したのは5世紀ごろとされている。 (日本の地名は)日本語で口伝えで行なわれたはずなので、地名に新しく入ってきた漢字を当て字された、と考えられる。文字で地名が表記される時(頃)には、すでに地名の語源(語義)が不明であったものもあるだろう、当て字された文字には、本来の意味からは離れてしまった可能性もある。 律令制の下で、和銅6年(713)“1文字あるいは3文字の地名を2文字に統一するように、という命令” があった。古代、国家形成過程に、支配者が強権をもって、大昔からの、言い伝えられてきた地名の文字を改定させたことがあった。 以上の内容を踏まえて 出羽の国を比較して考えてみたい。 出羽国が文献上、初めて出てくるのは「続日本紀」の和銅元年(708年) “新しく出羽郡を建てる、これを許す”の記載だと言われている。 しかし、万葉仮名での記載されるほかの文献(倭名妙、延喜式)などの記載から平安時代まで”出羽“は、“伊テ波(いでは、あるいは、いては)”と読んでいたともいわれる。 ”出羽郡”は、和銅元年(708年)に 越後国の一部としてつくられた。ほどなくして和銅5年(712年)には” 出羽国”がつくられ、尾張、上野、信濃、越後などから和銅7年(714年)から養老3年(719)年まで4回、累計1300戸の柵戸(さくこ)といわれる移民があったとされる時代だった。 和銅6年(713)の律令制の2文字への地名変更命令(好字二字化令)の前後の時期だけに“出羽”の地名に関しては万葉かなを使って表記するかどうかの微妙な時期にあったことが想像される。文献上、古い出羽の地名は、“出羽”と“伊テ波”の表記で混在するようだ。 “出羽”はもともと“イデハ”と呼んだ地名に“伊テ波”と万葉仮名をあて、律令制の理由から、“出羽”の2字があてられ、その文字から ”でわ”と呼ぶようになったと考えられるのではないか。ちなみに“いては”と “いでは”を考えた場合、方言では濁点でにごる言葉を多く使うことを考えると“いでは”が自然だ。また、“イツハ”と書くのは、“出羽”の読みからくるもので、この経緯からは少しはずれるように思う。 ”つ”と”て”は弱く、聞き取りのにくい発音で東北の言葉(なまり)をうまく表現できていないことも考えられる。もともとの”出羽”の呼び方にもっとも近いと思うのは“イデハ”もしくは“イズハ”だろう。 “出羽”と“出雲”は、同じ“出”という漢字を持ち類似の感じがする。それは、日本海沿岸というお互い同じ文化圏にあったことや、記紀などの作成の時の権力者に対して同じような立場(遠い位置)にあったことなどから、偶然とはしないで共通の字があてがわれたと考えることもできるのかもしれない。 次回はそれぞれの地名の意味について考えたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年07月23日 17時06分37秒
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