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出羽の国、エミシの国 ブログ

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2008年05月06日
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カテゴリ:出羽国の地名
地名には読むのにむずかしいものがある、"余目"はどうだろう。"よめ?"とか"よもく?"と読み間違えられることがあるそうだ。

 正しくは、"あまるめ"。この余目について調べてみた。
余目地区は旧町名だがその発祥の具体的な場所はわかっていないようだ。出羽の国の国府の推定地である、古郡や平方、城輪に近くに日本古代の地名であることは間違いなさそうだ。
 周辺(隣町含む)には、(旧)大和村、八幡(やわた)、三和、本小野方、三輪神社、飛鳥、坂田、広野など、なぜか大和や古代の地名を連想させる地名が多く、跡、福原、など何か遺跡が出てきそうな興味ぶかい地名も多い。
 平安(古代)の時代、里を割り振り作る際、50戸で1里としたが、それで余りが出たときには10戸以上の場合に余戸(あまりべ)として独立させた。余目はこの余戸の里の名がなまったものと考えられている。今も余戸、餘部、余部など、これと同じような地名で全国に多くのこっている。

 和妙抄(950)によれば、庄内地方(3郡、16郷)のうち、出羽郡には、大田郷、大窪郷、河辺郷、井上郷、餘戸郷、の5郷があった。
 この中の餘戸郷は、今の余目に間違いないだろう。吉田東吾は、その郷を旧東田川郡余目町、常万村、八栄里村(最上川南岸)と推定している。現在の最上川の南側、京田川が合流するまでの2つの川に挟まれた場所、に位置する。一般的に神社などの跡地はかつての政庁などがあった場所であることが多い。現在の余目地区にはいくつかの八幡神社があるが、一番広い御殿町地区隣接の八幡神社より、その南に位置する上朝丸地区の神社の方が古いという言い伝えもあるので、もしかしたらその近くが平安時代の余戸の里(餘戸郷)だったのかもしれない。

 平安末期には余戸郷に海部荘(あまべのしょう)ができ、鎌倉時代には大泉荘に含まれたとされる。歴史的にも奥州藤原氏、上杉氏や最上氏など、立ち代わり大きな豪族に支配された。江戸時代にはいくつかの堰を通す大規模な水利開拓がされたためより大きな地域に発展した。
 現在はJR線に余目駅として地名が残る。旧町名でもあり、戸数が50以下であったということが想像がむずかしいほどだ。
 ちなみにそのJR余目駅構内の看板では、
"治歴年間(1065-1069年)、この辺りは陸奥国信夫郡余目の荘司、佐藤清郷の領となりました。佐藤氏は佐藤知基に当地に城を備えさせこの地に家郷の名を移し余目になったと言われています。"と、”余目”の由来について紹介している。信夫郡の佐藤氏は源平の合戦(1180-1185)で義経に従い活躍した佐藤(継信・忠信)兄弟が出た一族である。そうすれば、余目は信夫郡由来ということになるのかもしれない。佐藤氏の統治は1065年から1189年までと考えられているので奥州藤原氏の影響があったのだろう。ちなみに余目地区には2つの八幡神社があるが上朝丸地区の八幡神社のほうが古いという言い伝えがある。いづれにしても2つの八幡神社がその佐藤家の屋敷近くと考えられるのが自然なように感じる。

 漢字からは読み方を推測しにくいものがある。地名には古くからの読み方(音)に、意味のない同じ音の漢字を当てたと考えられるものも多いからだ。そんな読みのむずかしい地名を地元の人に聞いたり、聞いて納得させられることがあったり・・・地名を知るのもおもしろい。

春の月山 <余目>
 ・春の庄内平野と月山(余目地区南側から望む)








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最終更新日  2022年01月10日 14時37分35秒
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