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テーマ:ノンジャンル。(2210)
カテゴリ:出羽国の地名
出羽の国に飛鳥村(現在は酒田市飛鳥地区)がある。昔からの疑問だった。
ありきたりな地名にも思えるが、庄内平野の最上川周辺には奈良と同じ地名がいくつかある。 そして、ここも歴史の古い由緒ある地名のようだ。(以下出羽飛鳥とする) この村は蝦夷を祀る奈良県飛鳥(以下奈良飛鳥)地方の人々が移住した村かもしれない、と勝手に想像力をたくましくした。 この平田地区飛鳥村には“飛鳥神社”があり、その社伝には “807年(大同2)、 大和国 高市郡“飛鳥坐(います)神社”より勧進した、飛鳥の地名もそれによる ・・・“ととても古い記録がある。 今から1200年も前 わざわざ遠く奈良飛鳥から勧進したというのは、 この時期に奈良飛鳥と人の交流があったのは確かだろう。 蜂子皇子が出羽の国に来て(593年)から、およそ200年後。 出羽郡ができたのが、708年、そのときからだと100年後。 807年ごろは、阿弖流為や坂上田村麻呂などの活躍する38年戦争の直後である。 桓武天皇が亡くなるのが806年3月であるから、京では民衆を疲弊し、その原因の“征夷(軍事)”と“都づくり(造作)”をやっと中断した時期にあたる。 ただ、この人たちがいわゆる“征夷”として移住してきたかは疑問だ。以前にも書いたように、大和朝廷では 結局武力では出羽・陸奥の蝦夷を征夷できなかった。村の位置は日本海や最上川にかなり近く、蝦夷の住む山間部からも少し離れていて38年戦争の直後で京からの軍事力の増員ということではなかっただろう。 また、当時の都である平安京ではなく、飛鳥という奈良から勧進したのも意味深げだ。蜂子皇子の縁なのか、大伴氏の縁なのか、この周辺には他に三和村、大和村などの地名が残っている。 ところで 奈良時代朝廷の東北への進出は柵戸と言われる移民が中心であった。 陸奥での坂上田村麻呂の政策をみるとおり、移民(柵戸)は反乱の少ない同和政策であっただろう。(いかに蝦夷の攻撃を警戒していたかは近くの城輪の柵でうかがい知ることができる。 城輪柵についてはいずれ触れたい。) 714年、出羽の国に信濃、上野、越の国から200戸の柵戸があった記録がある。 蝦夷政策には常陸国(茨城)、上毛野国(群馬)、越の国(新潟)からの柵戸の記録が多い。 ここに柵戸があったかは不明だが、記録上あったとしても、それは みな近い圏からなので奈良飛鳥からの直接の移民があったとすれば 例外の部類なのかもしれない。 いったん飛鳥に移住させされた蝦夷が何かの理由で戻ってきたと考えられなくもない。 それらを記していたかもしれない古記は元禄年間に焼失し、今は詳細はわからなくなっている。さらに神社の祭神をみることで共通のものがみえてくるようだ。 写真上↑ 平田地区からの鳥海山遠望 写真右→(出羽)飛鳥神社 引き続き、出羽飛鳥神社について述べたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年07月30日 21時02分51秒
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