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カテゴリ:出羽国の地名
2年前に古墳と確認され、(判明したものの中で)日本海最北の古墳という「鷺畑古墳」を訪れた。
2013年に発見がされたが、それ以前から古墳だろうと言われていたようだ。発掘によりそれが証明された形だ。
鷺畑の集落から古墳にいくには川にかかる橋をわたる。この古墳の近くには京田川が流れている。京田川は月山から発し、藤島川に合流し(かつては最上川と合流していたが分けられた)日本海へとそそぐ川だ。 古墳の位置は京田川の近くを選んでつくられたのではないだろうか?そう思った。 私は出羽の国古代、人が行き来したり物を運んだりるのに舟が多く利用されていたのではないかと考えている。近くの藤島の町(藤島川)では、実際、奥州藤原時代(平安時代)の丸木舟が出土しているし、京田川でも古代からこのような舟が使われていただろう。この川を上れば羽黒山周辺に行けるし、下れば最上川、日本海へ出れる。この古墳は意図して村々を行き来する舟、行きかう人々から見上げるような場所に作られたのではないかと考えられる。 古墳を紹介するテレビ番組をみると近くには川や海があり、舟などで行きかう人の目を意識して造られていた古墳が多いようだ。規模は違うが鷺畑古墳も同じだ。古墳は舟で行き来する人を見守ったり、(一里塚のような)目印になったりするものだったのかもしれない。 ところで「出羽国風土記. 巻之2」に”鷺畑”の集落名がでてくる。 調べてみると、江戸時代この集落は、”丸岡御料”に属していて、羽黒山領と西南で接しいていた。”御料地(幕府領?)”・・・とは珍しいと思ったが、意外にもその範囲は広い。出羽国風土記の中で庄内地方の記述には、大山、余目、丸岡の3つの御料地を探すことができる。これらの御料地は現在の鶴岡市街地の周辺(郡部)に分布し、庄内藩の西と東(一部南)に位置し庄内藩領を挟む形にある。(庄内藩の藩域にこれほど広範にわたる御料地があったことにも驚きだ。) 鷺畑集落の”丸岡御料”は、最上川を北の境界にして旧余目町の北西側、藤島の東南部、櫛引(丸岡)と南北に細長い範囲で飛び地になっている。形が不自然で、同じ御料である隣の余目御料とつなげるとひとつのまとまりか線のようになってもみえる(もともとあった御料地に松山領や庄内藩領が喰い込んで分断しているようにも見える?)・・・川沿いにあった集落とその後にできた集落との違い(歴史の違い)かもしれない・・・。 京田川沿い(周辺)が古代の人々の主な生活範囲(人の住み始めの領域)だったのではないか。この御料地の位置が古代出羽の国の謎を解く手掛かりになるのではないだろうか・・・と思った。 さて、鷺畑山古墳にはどんな人が眠っているのだろうか?蝦夷の刀、蕨手刀などがでてこないだろうか・・・などなど勝手な想像をしたり、興味はつきない。 羽黒山が極めて近い、羽黒山とのつながりが深い人であろうか。年代は不明だが鷺畑山古墳により、古墳文化が出羽の国にも存在し、内陸から日本海へとつながる広い範囲にあったということがおもしろい。 古墳自体もは多い、昔は庄内平野にも古墳がたくさんあったかもしれない・・・分かっていないだけで、他にもまだあるのかもしれないと思わせてくれた。 この貴重な古墳、将来は整備して古墳公園として永久保存してほしいと思った。 ※本当に書くのが久しぶりに書きました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年11月14日 14時24分07秒
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