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出羽の国、エミシの国 ブログ

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2015年05月03日
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カテゴリ:出羽国の地名
ある歴史番組をテレビで見ていて、”ピーン”と頭に電気が走ったような、ひらめいたような気持ちになった。(まるで一休さんのように?)歴史秘話ヒストリア「国書偽造秘められた真実~国境の島・対馬の憂鬱~」を見ていたときだ。

 その番組の内容は江戸時代の朝鮮通信史の歴史の内容だったが、対馬の古代の歴史からはじまる。
対馬国には“西の漕手(コイデ)”といわれる古代からの港があり、奈良時代、遣唐使がこの港から大陸へ船出したという。古代、港のことを“漕手”と言ったのだそうだ。
 そういえば、出羽の国、最上川沿いに”小出新田(コイデシンデン)”という集落(現庄内町)がある。この“小出”は、“漕手”の当て字だったのではないのか?!・・・とすれば、ここが船の出発する場所、古代の川港だったのではないか・・・何か謎が解けそうな、そんなに気持ちになった。ちなみに“新田”や“興野”はこの地域には多く戦国時代に灌漑用水により作られた集落をいう。小出新田について調べてみた。


 まずは、言い伝えから。現在の最上川は、集落から1kmほど北側を流れているが 以前は集落を隣接して(北側を)流れていた。戦前、内務省の工事により最上川が北に移動した、という。なるほど、WEBで調べると土木学会のHOMEPAGEに次のような資料を見つけられた。

http://library.jsce.or.jp/Image_DB/j_naimusyo/kawa/46138/zu.pdf
(最上川改修計画大要 秋田土木出張所 大正9年10月(1920)参照)

 小さくて少し見つらいが、最上川が丸く流れている川沿いの南岸(中央部の右下)、“小出新田”の地名が読み取れる。赤い線の新しい川の流れと青い線のそれまでの川の位置も見てとれる。言い伝えは正しかったようだ。
  • P1020219A.jpg
  •  
    ↑ かつての最上川は、整備されて今も“(土場)沼、としてあるいは、灌漑用水路”として残っている。沼と思っていた旧最上川だが直線で人口的だった。


  • P1020208.JPG
← 桜並木と堤防が整備されているかつての最上川(1920年改修前)。
北の方角を望む。(後から述べるが実はこれも人口の川だった。)

 この風景をみれば、ここが船着き場だったことの想像は難くないし、実際この地域は“土場(ドンバ)”とも言われ、鉄道が敷かれるまでは船着き場だった。

 [この新旧の最上川の間、約1kmの土地はしばらくは河原のままであったが、戦後まもなく”田んぼ”として開拓(三合原開拓)されたのだそうだ。よく庄内の民家で見かけられる丸石の石垣として利用されている丸石は、このような場所から堀りだされたものなのだろう。(最上川沿いではこのような開拓がいくつかの場所で行われ、土は山からも運ばれたともいう)。]
 

 次に、「出羽国風土記」で”小出新田”を探した。田川郡に小出新田の記載がなく探すのにとても苦労した。なぜかとなりの飽海郡「巻之4」にあった、驚くべき内容だった。

 風土記によると、「かつての最上川は“南野村”の西にあり(上流の地域)、洪水が多いため、正保元年(1645年)、620間(1127m)の長さの堀を切って新しい川とし、さらに新しい河口から 150間(272m)差添堀られ(”つないだ”という意味であろうあろうか)、河を1090間(1982m)北に移動させた」という。

 つまり、洪水を防ぐ目的で川を北に移動させるため上流から堀を堀り、下流からも堀を掘ってつなげたというのだ。江戸時代、最上川は1920年の改修の位置のさらに南側を流れ、小出新田村は最上川の北岸に位置していた・・・という、1645年のことになる。

 (昔から最上川の北が飽海郡、南が田川郡とされている。改修以前は、小出新田(と隣の堤新田)は“(最上川の)川北”の位置になるので北の“飽海郡”に属していた。小出新田は今では南側の(東)田川郡に属しているが、風土記が明治発行のため、飽海郡として記載させていたのだった)。
 
 小出新田の北西隣には“堀野”という集落もあり、堀をほってできた土地(野原)の意味にとれる。対岸の酒田市(旧松山町)にも“小出池ノ尻”の地名が見えるので北側の山の裾野まで、“小出”としての地域が続いていたと考えるのが自然だろう。また、現在、陸羽西線の南野駅のある"南野"という地名も古代、城輪の柵(古代出羽国府の有力な推定地)から見た最上川を隔てる"南の野原"という地名として解釈できそうだ。

 風土記どおりにこれらの集落や境界をかつての最上川が流れていた・・・とすれば 今より大きな川の蛇行が想像できる。(最上川の)小出新田 1645改修1920改修と呼べる2段階の川の移動があり、合わせて3km移動したことになる。地図でみてみるとおもしろい。隣の赤渕新田と堤新田に細長い入り地がある。廻館の現在の国道47号線の東側の丸くなった境界線との“U”の字形、これらが旧最上川の土手(バンク)の跡なのかもしれない(古地図の廻館の位置は間違いで線路の南側になる)。


 昔から古代出羽の国では最上川を船で行き来していたと推測されているが、港の位置については不明な点が多い。特定するのが難しいようで、その位置が今と昔とでは大きく変わってしまっているからなのだろう。小出は古代出羽の国の港の有力な候補の1つ・・・と考えてもいいかもしれない。飽海郡にあったとすれば、最上川北側にあった城輪の柵の港となるのだろうか?
 昔から”小出”とはどんな意味だったのか、疑問だった。小出という地名は他の地域でも時々目にする。古代の地名としての"小出(漕手)"、正しいかどうかはいつか発掘されるときがあって、遺跡が出るかにどうかになるのだが、長年の謎に大きなヒントを得たような気がした。
(引き続き、小出の謎のせまりたい。)





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最終更新日  2023年11月20日 20時58分52秒
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