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出羽の国、エミシの国 ブログ

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2020年07月26日
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テーマ:本日の1冊(3698)
カテゴリ:出羽国の地名
「出羽の国」の地名について、以前から考察してきたがその再考をしたい、今回で3回目(全5回)となる。
 前回は同じ国名に"出"のつく、出雲の国との比較をして「元々の地名の語源の多くはわからなくなっていて、文字(漢字)については後世の創作で意味がない、その創作の当て字に捉われてはいけない」という説に則って考察した。しかし、漢字の持つ字の意味を棚上げにして、イデハ(イテハ)という音のみを元にして、地形や土地の特性、人や生活の中の名詞から地名にされたのではないかと考える一方で、出雲(イヅモ)と出羽(イヅハ)は同じ"出"という漢字を使っていることから、表記される漢字(表意)としてもつ絵のような象形デザイン的な意味がある、という考えも捨てきれないように思えてきた。

 漢字はアルファベットとは違い表語文字であると同時にその形状自体に意味をもつ表意文字でもあり、このことをもっと重視しなければならないのではないか、もともとあった音に多くの漢字の中から2文字を当てたということはそれなりの理由があったのではないか・・・。
 出雲は万葉仮名の伊豆毛に「雲」をイメージした漢字がつけられた。同様に漢字が日本に入る前の古い時代の意味の音の呼称、万葉仮名の「イデハ」があってその後に「出羽」という漢字があてがわれたとすれば、共通点をピックアップして考察してるうちに当てがわれた文字(当て字)にまったく意味がないと考えるのは何かを見過ごしているように思えた。

 ところで漢字の日本への伝来は5世紀ごろと言われているが、漢字の持つ1つ1つの意味は漢字が広く日本だけでなく東アジアで普及した理由の1つで便利さの1つである。

 この文字1つ1つがその成立ちによる意味を持ち、その意味を含む漢字は話す言葉(発音)がわからなくても文字の意味で会話を可能にした。例えば日本人が中国の人と文字での会話、筆談ができることはよく知られている。古代中国で漢字が普及した背景には黄河や揚子江流域の離れた地域の言葉の違った人たちが筆談できたことにあったとも言われる。言葉や発音が違っても絵のように目で見てコミニュケーションができるツールだった漢字は漢字文化圏として発達して共通の文化圏として歴史を作った。日本もその例外ではなく話す言語、語順など違いを乗り越え、文字として一つ一つの漢字の持つ意味から文章を作りだし古代から中国の王朝とも交渉を含め、交流できた。さらに、明治期には熟語などをつくり中国へ逆輸入させその漢字の表現を発展させることもできた。そう考えれば漢字の表記にはなにかしら意味があったと考えるのが自然だろう。

 これまで見てきたように「出羽」の国の由来には出羽国風土記(明治)を代表にして大きく分けて主に2つの説があった。それぞれ整理しながら再考したい。
 
 1."越の国から突出した出端(いではし)、陸奥の中にあって端のようにある(位置
)の意味。"の説について。
 
      もし、出羽を出端の意味とするなら「出端国」とそのまま表記してもよかったはずだ。"1"の説にはなぜ「端」ではなく「羽」という文字を当てたのか、説明はない。「葉」でも「波」でも「八」でも"ハ"と読める漢字であれば何を当てはめてもよかったはずだ。逆に「端」を使わなかった理由も語られていない。(ちなみに薩摩は狭端が語源とする説もあるようだがこれも再考が必要な感じがする。)

       この説は陸奥国が"道の奥"の由来とされているところからの類推と考えられる。

       「陸奥」の地名は天武天皇の時代(673~)に国を中国にならって"5畿7道"という行政区の集合体に分類したことに関係する。これはこの行政区の東山道や東海道の中で、奈良や京の都から見て遠く行政区の延長線上の奥の辺境を"道の奥(ミチノク)"と言ったことから始まった。陸奥は現在の東北地方全域に比定されている。676年ごろには道奥国が"陸奥国"に変更された。陸奥という地名は5畿7道より都から遠い地域を漠然と示すものなので逆に言えば陸奥と比定される陸奥村や陸奥郡というような小さな地区名があった訳ではなかった。つまり、陸奥は7道の内、東山道の奥で、畿内から遠い方面をさす関東以北の広い地域の総称だったと言える。


       一方、出羽国の成立ちは逆だった。庄内平野の最上川周辺から羽黒山周辺の狭い流域の呼称だったある地域名がその後拡大して、隣接の区域の代表名のような形で現在の秋田県と山形県の広い地域を含む地域の総称となった。陸奥と出羽の国名では成立ちが大きく異なる。出羽の地域の始まりは狭い地域の郡の名でおそらくは小さな里の名だったのだろう。

       「出羽」の地名を陸奥の国名の由来と同じ方法で類推することは間違いになるように思われる理由だ。

      【ちなみにその地区の区域については以前に考察した。
https://plaza.rakuten.co.jp/gassan/diary/200611260000/


 2.文字の意味から允恭朝(推定5世紀前半)に鳥(鷲鷹)の羽を土地の産物として(産出)献上したことからの意味(出羽郡の設置は708年)について。
 結論を先にいえば、この"羽の産出された地域"として”出羽”という文字があてがわれたと考えるられるのではないかと考えた。以下にその理由を綴りたい。

      2.a. 武蔵国(現東京都)の多摩川周辺に「調布」という古い地名がいくつか見られる。その地名の云われを参考に考えたい。次の万葉集の調布の歌は国語の教科書にも出てくる有名な歌だ。


      「たまがわ(多摩川)に さらすたづくり(調布/布のこと)さらさらに なに(何)そこのこ(児)の ここだかなしき(愛おしい)」

      (多麻河泊尓 左良須弖豆久利 佐良左良尓 奈仁曽許能兒乃 己許太可奈之伎)


       調布は律令制下の租税である租庸調のうち、「調」としてその土地の特産物であった麻の布を納めていた地域という地名だ。この歌は布を古代の言葉だが"たづくり(田作?)"という発音で表し、調布がこの地域であったことを証明する歌となっている。多摩は多麻(麻が多い)と書かれこれも地区名や名産品の当て字となっている。7世紀前半に歌われたという万葉集にまで遡れる資料だ。

     このように布を納めたように、出羽郡では"調羽"のような形で羽を納めたことがあった、と考えられないだろうか。


      2.b. 次に庄内地方で羽が取れたと仮定するならば、どのような種類の鳥の羽が考えられたもだろう、そしてその鳥の羽は何に使うために献上されたか考えたい。

       出羽国風土記(明治時代)では郡名になるより少し古い時代「允恭天皇(推定5世紀前半)鷲の羽を土地の産物として献上した」(神學類聚鈔 第4巻 風土記(931年))ことを引用して、これを郡名の云われの1つとしている。以前にも紹介したように、允恭朝以外の時代にも出羽郡から鷲や鷹の羽が献上されその羽は鷲や鷹の羽と考えられているが、その資料的な根拠はないとも言われる。これが当時土地の産物として郡名にするほどに珍しい、多くとれる、貴重なもの、などの要素を照らし合わせて考えてみてどうも腑に落ちる理由が少ない。出羽国風土記には"平鹿鷹千島杯"というように秋田県横手市(出羽国)の平賀地区は鷹が多く住む地域であったことが紹介されているが、庄内平野の出羽郡の地区が同じように鷲や鷹が多かったと言えるかというと少し疑問が残る。


     現在でもあるもので量(数)や捕獲しやすさから推測すれば大白鳥(オオハクチョウ)であれば納得しやすいのではないだろうか。白鳥は初冬にシベリアから越冬のために数多く飛来して庄内平野では田んぼや河川で餌をついばむ様子が冬の風物詩ともいえるほどだ。古代に庄内平野が現在のようなほとんど目につく限りに田んぼが広がる平野ではなかったとしても白鳥の餌やその量は現在とあまり変わらなかったとすれば、白鳥の羽であれば比較的容易にまとまった量を取ることができただろう。また、庄内地方はオオハクチョウの南限とされる地域ともいわれ大和(奈良)からみれば貴重さも加わる。オオハクチョウの羽であれば他の地域と比べても量的も差別化もされるように思える。


      2.c. 白鳥の羽は何に使われたのか。国名と使われるほどの価値や意味はあるのか。

     現在でも白鳥の羽は矢羽根に使われることがあるので、当時の一般的な用途としては弓矢の矢の矢羽根に使われたと考えてもいいだろう。宮中では奈良、平安の古代から「射礼(じゃらい)」という弓競技が行われていた。白鳥の白くそのきれいな羽は武器としての矢羽根はもちろんのこと、神聖な宮中行事にもうってつけのように思える。初詣などで神社にある破魔矢など白い矢羽根を思い浮かべれば縁起物として珍重されただろうことが推測できる。関東などでもコハクチョウや鴨などは多く飛来するのでコハクチョウの羽であれば多く献上できただろうがオオハクチョウだと数が少なくなる。オオハクチョウとコハクチョウとの矢羽根に使った場合の違いは不明だがオオハクチョウの方が体長が大きいので見栄えの良さと矢として遠くに飛ばせるなどメリットが多くあったのかもしれない。


 3.ここからは、話のおもむきを少し変えて「白鳥の羽」について、関雄二氏の本の学術的ではないが何か示唆を与えてくれるようなユニークな話を取り上げ、その理由を補足してみたい。    
 この本で関氏は「カゴメ歌」と京都府宮津市の籠神社の豊受大神の伝承などを通して”天の羽衣が白鳥の羽、そのものだった”という説を唱えている。これから白鳥の羽が天の羽衣に使われたのではないかと類推したい。

 👆※関氏のユニークな説が満載の「謎解き古代史 独学のすすめ/関裕二著」。


      3.a. 「天の羽衣」とは何か。

       良く知られるものでは「竹取物語」の中に出てくる。かぐや姫が月に帰るときに羽織ったり、「丹後国風土記」、能の「羽衣」、日本海沿岸地方などにある「天女伝説・羽衣伝説」で天女が羽織っている軽い帯のような(羽)衣のことだ。日本の昔ものがたりに出てくる、ある意味、ドラえもんのタケコプターのような機能をもつ空を飛ぶための道具なのだが、辞書では 


①「天人が着て空を飛ぶという薄くて軽く美しい衣。鳥の羽で作るという。」
②「天皇が大嘗祭・新嘗祭などで沐浴する時に身に着ける湯かたびらの称」

      などとされる。

       この鳥の羽で作るというところを留意していただきたい。絵本やアニメなどでは透き通る軽い帯のように描かれているものが多いが、正確には鳥の羽でできているもののようなのだ。空を飛ぶという科学を超越していてハリーポッターやオカルトのような内容でもある。


       ②の天皇が宮中行事の大嘗祭や新嘗祭などの祭事で沐浴するときに使われる白い衣の"湯かたびら(湯帷子/古代、入浴の際着たもの)"も天の羽衣と呼ばれる。現在ではこの天の羽衣は天皇の行事で使う白練平絹(黄色味を消して白くした絹を平織したもの)と変化して古代から今に引き継がれているようだ。仁和3年(1168)の大嘗祭の記録では、「三河の和妙の天羽衣(絹製)」と「阿波の荒妙の天羽衣(麻製)」の2種類があったという(1枚を着けて湯に入り、湯の中でこれを脱いで上がり、他の1枚で身体をふく(兵範記))。この仁和の頃には名前は羽衣と呼びながらも材料は絹や麻が使われ白鳥の羽は使われなくなっている。

      (和妙は「繪服(にぎたえ)」と読む、阿波の荒妙は「麁服(あらたえ)」で阿波忌部(徳島県)の当主の三木家が忌部の畑でつくって納めるもので祖神、天照大御神が憑依されるものという説がある。)


     関氏のいうように古代に宮廷の儀式での天の羽衣にオオハクチョウの羽が使われたとすれば出羽の国の白鳥の羽が献上されたとすれば重要な特産物としてのつながりがでてくる。そして、その鳥の羽を献上した地域が「出羽」と名つけられた(当て字された)、とすれば地名の由来としてもおかしくない。


      3.b. おとぎ話の鳥の羽で作られた天の羽衣がどのように重要なものだったのか。

       高校古文の「竹取物語」の一般的な現代語訳によれば天の羽衣は"着ることによって空を飛べ、心が変わってしまう"もの、”地上で感じていた物思いや人情がなくなってしまうもの"のように説明されている。

       関雄二氏によれば、"古代において権力の象徴として使用されたのではないかと思われる節がある"という。"豊受大神は来ていた天の羽衣を奪われて神通力を失っている”、"これ(天の羽衣)が、いかに重要視されていたかは、大嘗祭のクライマックスで、天皇が天の羽衣を着ることで人間から神のような存在になると信じられていた"、"かぐや姫は天の羽衣を着ると人間の心がわからなくなると『証言』している"として、”天の羽衣”とは、"神通力をもつ最高の呪具であるとみられていた”としている。


       その説明を後押しするように、梅沢美恵子(著書「悲の巫女 額田王」)は万葉集の持統天皇(在位686~697年)の歌で教科書にも出てくる有名な次の歌について従来の解釈とは違う持統天皇の"天の羽衣盗みの歌"と解釈したことについて、達見と称している。

 「春過ぎて夏来たるらし白栲(しろたえ)の衣乾したり天の香久山」

       "白い衣が天香久山に干してあったのは、「洗濯物」などではない。これは、天女が沐浴しているという意味である。・・・今この白い衣(天の羽衣)を盗めば、天女(前javascript:void(0)政権/天武天皇)は身動きがとれなくなる。春が過ぎて夏が来るように、動乱が起こり、天下は自分のものになる。チャンスがやってきたのだ・・・" 

       天の羽衣を盗むことにより持統天皇が天下を取ることができるというような天の羽衣がまるでヨーロッパ王族の王冠のような権力の象徴として使用されたもののように捉えなおされている。


       補足になるがこの歌の時代的背景には"持統天皇を背後から操っていたのは、いうまでもなく藤原不比等であり、持統天皇が潰しにかかったのは、ヤマト朝廷誕生以来頑なに合議制を守り抜こうとした蘇我氏や物部氏を中心とする豪族主体の政権にほかならなかった。そして、持統天皇は藤原不比等とともに、新たな王家を築くことに成功しているのである。"と関氏は説明する。

       竹取物語(かぐや姫)は藤原氏批判の内容とも言われているが関氏のこの本はそれを深堀りして解説する。おおまかに誤解をおそれず言えばこの時に藤原氏の歴史の書き換えのようなことがあったのではないかというような内容にもなる。


       現在の天皇はいうまでもなく憲法にうたわれているように日本国と日本国民統合の象徴なので直接権力を行使することはなくなり、天皇の儀式も憲法に書かれた国事行為の1つとなっている。歴史的にかつて持統天皇の時代の白妙の衣が白鳥の羽だったのか、絹織物だったのかは別として古代において白鳥の羽でできた"天の羽衣"の権威的なものとされていたかもしれないことがキーとなる。

       古代から天皇の権威の象徴としては三種の神器が特に有名だが、その他に同じような扱いとされるものに”天の羽衣”もあったのかもしれない。それらの役割の違いの詳細は不明だが、中国の玉璽、ヨーロッパ王族の王冠のようなものと同様に扱われていたと考えれば、古代、宮中行事において天皇の即位における権力の象徴としての天の羽衣はとても重要なものになる。白鳥の羽を調のように献上することはとても名誉なことなので、羽は地名となるにふさわしい品物であり、出羽は献上品、商品を産出する地名となった、と考えることができるかもしれない。弓矢のように大量に使う道具でもないので前述の「調羽」とは違い「出羽」となることも納得がしやすい。



     古代日本(ヤマト)の人々は本名を直接呼ばないようにするなど現代では信じられないような文化の違い、迷信や風習があったりする。白鳥の羽の天の羽衣で空を飛べたり、神通力を持つなどは現代ではフィクションの世界、科学の常識から外れたばかげた迷信と一蹴されるような内容でもあるのだが、当時の人々の常識としてとても重要なものだったと想像をたくましくすれば、神通力をもつ羽衣、これを産出する地区、となる出羽という地名はその後、国の名前に当てられるほどに残ったのも大切にされた結果なのかもしれない。古代の天皇、大王の時代には別名として地名とセットで鳥の名前も付けられていたことも、羽衣に通じる内容で興味深い。


      3.c. さらに天の羽衣の材料になったかもしれない白鳥について考えてみた。

     日本の神話には稲作の発祥として"大鳥(鷲)が稲穂を持って飛来した"とする瑞穂の国の伝説がある。この大鳥はいつの頃からか鷲と混同されているようだ。古い文献の多くでは白鳥だったといわれ、多くの大鳥神社では白鳥を祀る。たしかに白鳥が稲の籾を咥えたり体に付着したりすることはありそうだが鷲が籾をつかんだり咥えることはイメージとしては難しい。その大鳥神社でも祀られるヤマトタケルは白鳥になったという古事記の物語で有名だ。継体天皇の墓に推定されている今城塚古墳には白鳥の埴輪が多く埋葬してあった。白鳥が古代の人々にどのように考えられていたものか謎が解ければ出羽の国の名前の謎もわかるのかもしれない、遠い国を海や山、国境も関係なく簡単に行き来できる白鳥には何かロマンを感じさせるものがある。


    (東京駅レリーフの写真(稲穂をもつ大鳥(鷲)) 2024年撮影)







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最終更新日  2024年10月17日 20時34分01秒
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