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パリ留学から帰国後、高村光太郎はモデルを雇う余裕がなく、自分の手をモチーフとした「手」を制作した。
その手は施無畏(せむい)と呼ばれる形で「何ものも畏れず受け入れる」意味があり、それは光太郎の芸術家として生きる決意表明でもあった。 …そんなオープニングから「手」を中心とした視点で「乙女の像」までの流れを紹介した番組を観ました。 「常識なんて世間がつくったものでしょう」という智恵子の言葉や光太郎の「道程」など、その決意の裏側に何があったのか…なんて当時の状況を知れば表面だけでも簡単に想像できる。 花巻の高村山荘へ行ったことがありますが、老齢の光太郎にとって厳しい自然環境の中「どんな気持ちでいたんだろう」と改めて思います。 今の私が行ったら、またその時とは違う感覚・視点で見ることができるような気がしますが、行くのはもっと彼らについて勉強してから…と思うのでした。 (写真は朝陽と飛行機雲) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.12.09 19:20:23
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