地図を作っている友人と小岩で呑んだ。
彼と会う前に伊能忠敬のことを質問してみた。
彼にとっては大先輩だそうだ。
そして、日本テレビダッシュ村で伊能忠敬の地図を作るという番組があったことを聞いた。
早速検索すると、番組そのものはネットになかったが、TOKIOが城ヶ島を測量しようとして挫折した内容だったとわかる。
伊能忠敬の凄さを体をもって知ったというオチだ。
伊能忠敬は、ひたすら2つのことを続けた。
歩いた距離を正確に測る。
そしてその地点の磁石の傾きを記録する。
北を指す磁石が一定の基準から何度ずれているかを記録していく。
ひたすら距離と角度を記録していく。
東京大学で地理学を専攻したその友人から、クラフトビールを飲みながら、江戸時代の天文暦学について解説してもらう。
当時の江戸は、天文と測量と算術が支配していた。
『天地明察』の中で、渋川春海が、北極星を目指す旅に出るが、星と暦は密接な関係があった。
江戸期の算術とは、暦と天文が密接に絡んでいた。(中世の占星術と数学のような匂いがする。)
また、早速『その時歴史が動いた 伊能忠敬 56歳からの挑戦 ~日本地図誕生の時~』を視聴した。
その中で、早坂暁さんが、忠敬について重要な指摘をする。
・50歳で少年の心(星を見る)を持ち続けたこと。
・商い(あきない)が、飽きないでコツコツ続けることの大切さを身につけた。それが、最後、モノになることを掴んでいた。(もしくは、モノにするイメージを持つ能力があった。)
・持続力と協調力があった。(自分が死んでも最後のゴールは別の人が切ればいい、商いを通して、別の人がやるし、任せることを学んでいた。)
伊能忠敬は、50を過ぎて、年寄りの道楽と言われながら、浅草雷門の天文方暦局に入り高橋至時(よしとき 32歳)に弟子入りする。
2人が気になっていたのは、地球の大きさである。
2点間の距離と、北極を示す磁石、北極星のズレの角度から、地球の大きさを計算できる。
当時、忠敬は、浅草と住んでいた深川との間を計測して至時(よしとき)に仮説を述べる。
至時はその仮説を良しとしなかった。
どうせなら、蝦夷地へ行くことを提案する。(至時には、暦の改訂と、蝦夷地帝政ロシアの圧力など、暦作成と西欧への対抗する地図作成の2つの思惑があった。)
それを計りに行くため、蝦夷への許可を得るために地図測量の名目で旅を始める。
それが、忠敬の日本地図作成の始まりだった。
東日本を計測し終わり、その後、正式に幕府から国家事業として、西日本の計測を命じられる。
1804年の12月のことである。忠敬59歳の時である。
伊能忠敬の地図は、その後、シーボルトを通じてオランダへと渡り、イギリス艦隊が日本を測量した際に、既にあると幕府から提出されたり、明治からは教科書などでも使用され活用された。
伊能忠敬の積み重ねた『商い(飽きない)』姿勢は、全国を地道に踏破し観測記録を残す地道な作業の連続だった。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20060512/102133/?rt=nocnt
伊能忠敬だからこそできたのかもしれない。
また、忠敬は、第一次測量の際に自腹を切った。70両とされる。
現在に換算すると1,200万円である。
忠敬の財力も関係している。
まだまだ、忠敬の入口である。
伊能忠敬について 江戸まさり佐原めぐり
江戸まさり 佐原巡り