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お墓で New! mamadocterさん

2008.03.21
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心と体は切り離せないわけなので、心だけの病気とか体だけの病気というのは存在しないと思っている。たとえばガン患者にはガン患者特有のメンタリティがあると、よく言われるよね。じゃあ、アレルギーって何だろう。

アレルギーは「本来、無害なもの」を体が「有害」と勘違いして、過剰反応を起こしてしまう病気。体にしてみれば身を守ろうと一生懸命働いてるわけだけど、それがアダになってるというか。本当はしっかり分解して栄養にしたり、栄養にならないにしても適当に排出しておけばいいような物質に、「毒だ!大変だ!」と大騒ぎの反応をしてしまうんだからこりゃ大変。

心にも、同じことが起きてるのだと思う。というより、たぶん大元は心の方じゃないかな。

前の日記でも書いたけれど、私が恐怖から身を守るために築いた壁は、感謝さえ感じることができない壁になっていた。心にしてみれば、一生懸命働いたわけ。もう怖い思い、したくないからね。

強がっている人ほど実は心が脆い、というのは本当だ。本当に強い人は、柔らかくふわふわとしているもの。プライドが高かったり攻撃的だったり毒々しかったり、何事にも動じないポーズを取ったり変にいつも笑顔だったり・・・そういう人は無意識に身を守るために、そういうことをしている。そうしていないと怖いから。心を裸んぼのむき出しにしちゃったら怖いから、偽りのキャラクターを長年かけて無意識に演じてるんだよね。

長いこと私のブログを読んでる人は分かると思うけど、私、随分毒々しかったでしょ。全然1ミリも自覚はなかったんだけど、あれ、強がりだったんだよね。数ヶ月前に「お豆腐ちゃん」が出てきた時、初めて分かったんだけど。ああいうキャラなんだと長年思い込んでた私はニセモノで、毒っぽかったのは「長年かけて築いた壁」で、中にいた本体の私はふわふわのやわやわだった。ぜーんぜん自覚なかったけど、私こんなに頑張ってたんだ、かわいそうだったなーって涙が出たよ。心っていうのは結構巧妙なやり方をするもので、何か大きなきっかけがない限り、まず「壁」の自覚はできないのが普通だと思う。

でもあのお豆腐ちゃん事件での気付きじゃ、まだ足りなかった感じ。現に私の体には、まだたくさんのアレルギーがある。アレルギーというのはつまり「愛を正しく受け取れない心」が肉体に具現化したものじゃないかと、思うんだ。

世界はきっととんでもなく愛に満ちていて、心が完璧に健康だったら、きっとただ生きてるだけでも嬉しくて仕方ないんじゃないかと思う。だけど誰しも育つ過程で、何千何万と辛い思いをして、その度に「次は傷つくまい」と防御の壁を築いていく。受けた傷の傾向によって壁の特徴もさまざま、色とりどりだ。確かに心は傷つきにくくなっていく、でもそれは麻痺させているだけ。麻痺した心は、愛も受け取れない。ネガティブなものから身を守るため、ポジティブなものも同時にはね返してしまうのだ。

ここで具体例。私は食べることが怖い。子供の頃すごく太っていて、散々いじめられバカにされ、太っていたら生きる価値がないと強烈な自己否定をしてしまったからだ。だから小学生の頃から散々ダイエットとリバウンドを繰り返し、挙句の果てには食べて吐くようになった。食べ物は本当は栄養になるはずなのに、私にとっては「太ってしまう毒」なのだ。

出産前に1年過食が治っていた時以来、「太ることへの恐怖」はほとんどなくなった。あの時はモルヒネのレメディ(極限の恐怖に対応するらしい)を飲んで、急に「あれ?消化しても大丈夫かも?」という気がして、吐かなくなったのだ。最初はおっかなびっくりだったけど、吐かずに食べることができるようになった時、私は溢れ出る感謝の気持ちに泣きながら食事をしていた。それまで怖くて毒にしか思えなかった食べ物が、私に命を分けてくれるありがたい存在に変わった。生かしてくれてありがとう、と泣かずには食べられない時期がしばらく続いた。

それから一年してまた戻ってきた過食。太ることへの恐怖は、ゼロとは言わないまでも、今はほとんどない。(巨大な戦車みたいな体になったら、やっぱり嫌だなーと思うよ、さすがに)それでもまだ、何かが怖いのだ。その恐怖の正体はまだ分からない。でも子供を産んで、私の自由な時間というものが全て奪われた時、怖くて怖くて過食嘔吐に逃げずにはいられなかった、それは確か。私にとって食べ物は、また毒になった。

私みたいに直接「食べることに問題」を抱えてる人は、もしかして一番分かりやすいかもね。食べ物は、肉体にとっての愛です。形ある愛。受け取って飲み込んで滋養にするもの。でもこういう分かりやすい摂食障害を抱えていなくても、ただ単に「アレルギー症状がある」という人はたくさんいるだろう。というか、多分だけど、自覚はないにしろ、全ての人に何らかのアレルギーはあるんだと思う。程度の問題ね。摂食障害みたいに意識的に食べるとか食べないとか吐くとか、そういうことはしてなくても、細胞とかのレベルで食べ物を拒否している。体は正直ってやつですよ。あ、食べ物に限らず、犬猫ダニ花粉とか電磁波化学物質、その他もろもろ、もろもろね。食物アレルギーは「体にとって必要なものを拒否してしまう」症状で、環境アレルギーは「体にとって無害なものを拒否してしまう」、まあそれぐらいの違い?

昔からぼんやり思ってるんだけど、究極に心が自由になった時、つまりそれは悟りの境地ってことだけど、肉体も外部のものに侵されなくなるんじゃないかな。ほら、実際ヨガの行者とかでいるみたいじゃない、毒を飲んでも大丈夫な人とか。まあ限度はあるだろうから、火の中にいても燃えない体とか、そういうのは無理かもだけどさ。意識の転換で電磁波過敏症が治った話は前にも書いたと思うけど、つまり肉体が何かを受け付けない度合は、心が何かを受け付けない度合、そのものなんだと思う。防御壁の厚さとでも言いましょうか。健康であるということは、たぶん心も体もオープンに柔軟になっていくこと。

さてここで「じゃあ赤ん坊のアレルギーはどうなるわけ?」という話も出てくると思う。生後たった数ヶ月で、そこまで心に防御壁作っちゃってる?そんなに病んでる?・・・というと・・・。それは多分、本人の素質もあるけど、親の影響も多々あると思う。12歳ぐらいまでは(つまりいわゆる反抗期あたりまでだね)子供はほぼ完全に親のエネルギー的影響下にいるみたいだからね。その後、どれだけ影響から脱却していくかは、本人次第だけど。

というわけで、ものすごい長い話になっちゃってるけど、私の食物アレルギーも眞手の食物アレルギーも、私の気持ちが健康になっていけば治るな、と今は思っています。かなり楽観的。例の「感謝が足りなかった」に気付いた時、あ、これでアトピー問題も徐々に解決していくかもな、と思ったの。まあ多少、時間はかかるかもしれないけどさ。体は病んでるけど心は健康、なんてこと、ありえないもの。(逆も然り)私は眞手のアトピーをきっかけに「何故こういうことに?」といっぱい考えたし、いっぱい学んだと思う。いや、まだ進行形。

やっぱりさ、我が子が血まみれで泣き叫んでて、元の人相が分からないぐらいむくんだ顔になって、痒くて気が狂いそうになってたら「なんでこんなことに?」って思うよ。悲しいよね、すごく。見るのも辛くて、私も夫も一時はかなり鬱状態になった。対処法は色々ある、それこそ腐るほどあるけど、方法論以前にさ、どうしてこういうことが起きたか、それを知りたかったわけ。「なんでまた、この子が?」って思うじゃん。つるつるぴかぴかのヨソのかわいい子供を見たりすると余計に。なんで自分だけこんな苦労をしょい込んじゃったんだろう、って怒りの気持ちも湧いてきたよ。でも「たまたま」なわけはないんだよね、絶対。まあもちろん我が子が2人いるうち、一人はつるつるぴかぴかなので、そういう意味じゃ「たまたま眞手の方だけ」なんだけど。でも偶然そうなっちゃったかというと、そんなわけはなくて。まだまだ小さい赤ん坊だからこそ、原因は親の心、特に母(俺だよ俺!!)の心にあると思った。

子供は鏡、ってよく言うけどさ。子供が複数いたら、それぞれに別の面を映し出してくれる鏡だと、私は思ってて。モモと向き合ってく中でも色々あったし、これからもあるだろうし。眞手は「アトピー担当、アレルギー担当」みたいなね。彼は私の「愛を受け取れない心」を反映してくれる、鏡だ。私がそれを改めなかったら、彼は今後それを自分の問題として引き継いでいくことになるのかもしれない。誰しも親の問題を引き継いでいるように。

あーあーまたとんでもない長い文章に。私って説明下手なんだなーと思う。頭の中では「あ、そうか」「で、こういうことか」って5項目ぐらいポッと浮かんだだけの話なんだけど、言葉で説明しようとすると、こんなことに。ニホンゴムツカシー。

今回ね、私が「感謝」の件に気付けたのは、もしかしてNAETのおかげもあるんじゃないかと思っている。あれは肉体のアレルギーを治療するものだけど、やっぱり肉体だけ変わって心はそのまんまなんてこと、あるわけないもんね。

「ありがとうありがとう」なんてさ、有名でしょ。知ってるからには「バカバカしいけどちょっと試してみよう」ぐらい思ったことあるよ、私も。簡単にできることだし、溺れる者はワラをも~ってやつで、私かなり溺れ気味な人生だからね。2万何千回だか唱えると突然涙が溢れて止まらなくなって、人生観が変わるとか、そういう面白い話も聞くしさ。でも今までね、何度か試したけど、「ありがとう」を唱えても、感謝の気持ちなんて全然湧いてこなかったの。だから続けようと思ったこともなかった。今回NAETを受けたことで、私の壁がある程度取っ払われてさ、感謝の気持ちを感じられるだけの素地ができてたんじゃないかと、思っております。

こう考えると、何だかアレルギーにも「ありがとう」だよね。気付かせてくれてありがとう、だ。はー長かった。





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最終更新日  2008.03.22 03:51:32
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