75-1 物質世界・唯物主義
75-2があります『次の日記』で進んでください 75-a (物質世界の「実在」はすべて影である) 物質の世界に生きておられるあなた方は実在から切り離されております。あなた方自身にとって、そのことを理解することが難しいことは私もよく承知しております。なぜならば、あなた方なりに何もかもが実感があり実質があり永遠性があるように思えるからです。ご自分を表現しておられるその身体、地上という大地、住んでおられる住居、口にされる食べもの---どれをとってもこれこそが実在であると思いたくなります。でも、それらはことごとく "影" であり "光" ではないことを申し上げねばなりません。あなた方は五感に感応しない世界を想像することができません。従ってその想像を超えた世界における活動と生活ぶりを理解することができないのは当然です。 『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986、pp.69-70 ***** 75-b (地上世界は実在ではなく影である) こうした会合の場は、地上の人間でない私どもがあなた方地上の人間に永遠の原理、不滅の霊的真理、顕幽の区別なくすべての者が基盤とすべきものについての認識を新たにさせることに意義があります。物質界に閉じ込められ、物的身体にかかわる必要性や障害に押しまくられているあなた方は、ともすると表面上の物的なことに目を奪われて、その背後の霊的実在のことを見失いがちです。 肉体こそ自分である、いま生きている地上世界こそ実在の世界であると思い込み、実は地上世界はカゲであり肉体はより大きな霊的自我の道具にすぎないことを否定することは実に簡単なことです。もしも刻々と移り行く日常生活の中にあって正しい視野を失わずに問額の一つ一つを霊的知識に照らしてみることを忘れなければ、どんなにか事がラクにおさまるだろうにと思えるのですが・・・・残念ながら現実はそうではありません。 こうした霊界との協調関係の中での仕事にたずさわっておられる人でさえ、ややもすると基本的な義務を忘れ、手にした霊的知識が要求する規範に適った生き方をしていらっしゃらないことがあります。知識は大いなる指針となり頼りになるものですが、手にした知識をどう生かすかという点に大きな責任が要請されます。 『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986, pp.14-15 ***** 75-c (霊的であるより物質的にならざるを得ない場合もあるのでは) 「まず神の御国と神の義を求めよ。しからば全てそれらのもの汝らに加えらるべし」 (マタイ・6・33) ・・・・・(両方とも可能であることが)当然です。が、優先すべきものをちゃんと優先させ、霊的真理を忘れなければ、物質面をおろそかにすることはないはずです。私は物質界に生きる人間としての責務を回避すべきであるかに説いたことはー度もありません。霊的存在として優先すべきものをちゃんと優先させ、その上で物的人間としての責務も忘れないということであらねばなりません。霊をおろそかにしてもいけませんし、精神をおろそかにしてもいけませんし、身体をおろそかにしてもいけません。責任をもつべきことを回避してはいけません。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp. 128-129 ***** 75-d (既成宗教よりも頑固な共産主義とどう対決すべきか) (ゲストの一人)われわれスピリチュアリストは形骸化しつつある古い宗教と対決し反抗することに多大の時間とエネルギーを注ぎ込んでいるようですが、もう一つの宗教である- 信奉者は宗教と呼ばれることを拒否なさるかも知れませんが- マルキシズムないしはコミュニズム(共産主義)についてはまったく言及しておりません。今では少なくとも思想上の共鳴者は人類の三分の一にも達しています。既成宗教のいずれよりもはるかに頑強で、その影響力は強烈です。これこそ純粋な唯物観を説いている点で、われわれの本当の敵ではないかと思うのですが...... コミュニズムというのは何のことでしょうか。 - マルクスとレーニンとエンゲルスの著作をもとにした政治的、経済的、ならび社会的思想と言ってよいかと思います。 もしもコミュニズムが真の協調性を意味し、階級上の差別もなく、住民がお互いに助け合う心をもった社会のことであるとすれば、現在の地上世界で思想的にコミュニズムを標榜している国家には、そういうものは存在しておりません。私の言わんとするところを明確に述べてみましょう。 地上社会の問題のそもそもの根源はマテリアリズム(物質偏重・唯物思想)にあります。皆さんはそれと真っ向から対立するスピリチュアリズムを提唱し唱道なさっているわけです。そして霊が実在であることが単なる理論ではなくて事実であることの証拠を提供しております。私と同じく皆さんは、ナザレのイエスをリーダーとする神庁の霊団によって考案された霊的大計画の一環として、霊力を地上へ送り届けるだけでなく、そこにしっかりと根づかせ、いかなる地上の勢力がたとえ束になってかかっても、それを駆逐できないようにするために、本日もこうしてここに集まっているわけです。 今まさに世界中にそのための霊的橋頭堡が設営され地固めされつつあります。それはさらに多くの橋頭堡を築くためです。霊力はすでに地上にしっかりと根づき、その恵み深い影響力を発揮しております。公的には禁じられている国々においてすら働いており、これからも働き続けます。 皆さんは明日のことを思い煩う必要はどこにもありません。最善を尽くして私たちに協力してくださればよいのです。そのうち徐々にではありますが、地上のガンである物欲が除去されていきつつあることに気づかれるでしょう。 『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 178-180 ***** 75-e (霊界には共産主義の指導霊というのも存在するか) -(もう一人のゲストが息子から依頼された質問として) "共産主義者の指導霊"というのも存在するのでしょうか。 そういう質問をされて私がどういう受け取り方をするかを説明しますので、しっかりと理解してください。 私はラベルというものにはまったく関心がありません。私にとっては何の意味もありません。地上世界ではラベルが大切にされます- 共産主義者、社会主義者、保守党、労働党、スピリチュアリスト、セオソフィスト、オカリスト、等々、挙げていったらキリがありません。しかし、大切なのはラベルではなく、その中身です。コミュニストという用語の起源は、物的財産は共有するのが正しいと信じた遠い昔にさかのぼります。それ自体はとても結構なことです。 いかがでしょう、有り余るほど持っている人が足りない人に分けてあげるというのは公正なことではないでしょうか。教師というのは持てる知識を持たざる生徒に譲ってあげようとする人のことではないでしょうか。 分かち合うというのは立派な原理です。私たち霊がこうして地上へ戻ってくるそもそもの目的も、やはりそこにあります。皆さんは私たちから学び、私たちは皆さんから学ぶということです。 聖書にも"地球とそこにあるものすべては主のものなり"(コリント1-10・26)とあります。これは人間は地上のものは何一つとして所有できない-自分のものとはなり得ないことを意味します。地上にいる間だけリースで所有しているようなものです。永遠に自分のものではありません。地上のゴタゴタは皆が自分がいちばんいいと思うものを少しでも多く自分のものとしようとする- いちばん、悪いものを欲しがる者はいません- そこから生じております。その結果として強欲、貪欲、私利私欲が王座に祭り上げられ、物欲第一主義が新しい神として崇拝されることになります。 地上には物欲優先の副産物が、見るも痛ましいほどはびこっております。悲劇・卑劣行為・飢餓・栄養失調・残虐行為・動物実験、こうしたものはすべて物欲を優先させることから生じる恐ろしい産物です。 みんなで分け合うという理念は結構なことです。共産主義という用語そのものに怯えてはいけません。初期のクリスチャンには全財産を共有し合った時期が、少しの間でしたがありました。ということは彼らのことをコミュニストと呼んでもよいことになります。 一つの理念をもつことと、それを実現するために拷問や抑圧や迫害や専制的手段を用いることとは別問題です。そこに大事な違いがあります。 ですから、ご質問に対するお答えは、大霊の恩恵を惜しみなく分かち合うべきであると信じて働いているコミュニストの指導霊はいます、ということになります。そこに何ら問題とすべきものはないと思います。 『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 180-182 *****