明治26年、祖父井上團平が薬を継承し、「怪我、火傷、皮膚病、目の病気、婦人病の特効薬」として官許を取得しました。薬が赤い甕に入っていたから「あか亀油」という名前にしたとか、若返り油があか亀油になったとかいうことです。二十歳の祖母すみが全国の神社の縁日をまわって、口上を述べて売りました。口上で人を集めて売るのは、香具師の符牒では「啖呵売」と言って難しく、そうそうやる人はいませんでした。「ガマの油売り」は本があって、丸覚えすれば誰にでも出来ましたが、すみは自分で考えていつも異うことを喋りました。小柄で美人で大きな声のすみが口上を始めると、境内に居た人達はみんなすみの前に集まって、ほかの露店商人たちは商売にならなかったそうです。
同じ神社へ二度行くと、薬の売り子志願がいつもありました。売る人達は旅先の宿から電報で注文して来て、團平は作った薬をチッキ(郵便小包)で宿へ送りました。すみが先に行った処では、「家伝薬あか亀油」の旗を立てるだけで口上を言わなくても売れました。売り子が大きな荷箱を天秤棒で担いで夜店に出ると待っていた客がワァッと集まって、瞬く間に荷箱がお金で一杯になり、売り子は宿屋へ戻ってお金を数え、笑が止まらなかったそうです。
團平は非常に世話好きで、貧しくて病んでいる人がいると薬を持って行って無料で病気や怪我を治してやりました。
怪我や火傷は重症でも、痕跡もなく完治しました。切り落とした指は、拾ってくっつけ、この薬を付けて包帯しておくと、元のように神経の通う指になりました。お客さんが勝手に試して、結核、リウマチ、喘息、瘍、胃潰瘍、胃癌、腸癌、喉頭がん、子宮がん、不妊症、なども治せることを團平は確認しました。でも、万能とは宣伝しませんでした。
関東大震災の折、團平はすみに手伝わせ、毎日毎日薬を作って宮内庁に1屯トラック一杯の薬を献上し、大正皇后陛下から賞状と勲章を戴きました。この時の過労が原因で、團平は急な心臓発作で亡くなり、四人の子供と大きな借金が残りました。債権者たちは、「あねさんが薬を継ぎなはるなら、無期限催促なしで待ちしょう」と言いました。
薬の売り子は増えていましたが、すみはまた、まだ2歳の末の子を連れて、夜店へ出ました。子供は、ご飯のフゴに入れて、いつも立てた旗の傍に置いていました。薬の優れた効き目は常に評判になり、特約店の希望者が続出しました。19歳の四男が家督を相続して團平を名乗り、薬を製造しました。借金は4年で完済しました。
昭和20年3月。大阪空襲で「あか亀本舗」は全焼。翌年、2代目團平は脳卒中で亡くなり、後継者のいないあか亀油は休眠状態に入りました。
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Last updated
2014.01.22 00:12:13
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