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2016.09.17
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誰にでも、叫び出したくなるようないやな思い出というものがあります。それは普段は無意識の方へ追いやられていますが、何かのはずみでそれが浮上してくると、人は今将にそれを経験しているかの如く、とり乱します。怒り、悲しみ、恥じ、憎み、まごつき、途方にくれるかもしれません。なぜそんなことになるのかといえば、それは経験がうまく処理されていないからだと私なら答えます。 

 

たとえば、人はよく知らないものについて不安になります。不安をなくす最善の方法は、それについてよく知ることです。いいかえれば、それについての明快な観念を形成することで不安はなくなります。それと同じことが経験にもいえます。人が思い出してとり乱すのは、その経験が上手く処理できていないせいです。ですから、それについてよく知り、それについての明快な観念を形成すればいいわけです。 

 

それでは経験を処理するとはどういうことでしょうか? 私はその一歩は、経験をよく味わうことだと思います。仏教では、人が死ぬと四十九日喪に服すという伝統がありますが、それはまさに経験をよく味おうとすることです。失恋でも、失敗でも、挫折でも、屈辱でも同様であって、本当は時間をとり、よく掘り下げてこれを味わい尽くさねばなりません。ところが人はマイナスの経験に向き合うのがおぞましいので、これをいい加減に扱い、早く忘れ去ろうとします。ここにまちがいがあるわけです。

 

 精神分析は、患者を上手く処理できていない経験にもう一度向き合わせる試みです。それは患者にとっては恥部をのぞきこまれるようなものですから、強い拒絶反応が起きるのも当然でしょう。しかし実はそれは、いい加減に済まされてしまった服喪を、もう一度やり直させようとする前向きな試みなのだと思います。






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最終更新日  2016.09.17 14:47:17
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