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どんなムラにもムラの価値観というのがあって、そこに属する人がどうしても気にしなければならないことがあります。これはむしろ当然で、同じ場所に多数の人間が集められたら関心のはばがどうしても狭くなります。たとえば、学生のときは、クラスで成績がいいか悪いか、運動ができるかどうか、異性にもてるかどうか、などに気をとられがちです。これらは実は社会に出るとどうでもいいことばかりなのですが、学生の間は成績がふるわなかったり、走るのが遅かったり、異性にもてなかったりすると死活問題のように感じられます。
これを笑う大人がときどきいますが、そう簡単に笑えないはずです。大人だって会社に入れば、同世代の中で仕事ができるかできないか、結婚しているかしていないか、役職についているかどうかが気になります。また、大人が社会人を引退して年老いて老人ホームに入ったり、病院に入院したりすると、そこでまたほかの人たちとの比較で優越感や劣等感をもつ、何らかの要因に出くわすでしょう。ひどい屈辱を味わうと自殺さえするのは、学生でも大人でも老人でも変わりません。結局、気にする対象が変わるだけで、ムラの構成員に承認されたい、落ちこぼれたくない、という人間の根性は、ゆりかごから墓場まで、執拗につきまとうのです。 しかし、私には、こうしたムラの論理を前近代的だとかいって批判することにはあまり乗り気になれません。ムラでうまくふるまえないからといって自分のムラを憎んだり、ほかのムラをうらやましがったりする人がいますが、そういう人はムラそのものを問題視しているというより、それを装って自分のムラに復讐をしたいだけというのが、多くの場合の本音です。私は逆に、ムラの中でうまく適応できなければ、その不適応を受け入れ、「落ちこぼれ」であることを愉しむ芸も処世術の一つだと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016.10.29 11:27:20
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