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どの共同体にも多数派と少数派がいます。秩序を維持するためには正統と異端、正常と異常の境界を人為的に引かねばなりませんが、そこから両派が派生してきます。
全部が多数派ならそれはそもそも多数派ではありません。多数派が多数派たるためには、少数派を必要とします。それは少数派にとっても同じことで、少数派が少数派たるためには多数派を必要とします。つまり多数派も少数派も、自分たちの政治的同一性のためには相手方が必要なのです。もちろん、少数派が多数派に権利を認めさせて、勢力図に変更を生じさせることもあります。これは劇的な変化であるように見えます。実際、こんなことが、弁証法的止揚とか、革命とか、歴史の進歩とか呼ばれています。 しかし別な見方をすれば、これは全然進歩ではありません。共同体は依然として共同体であり、変わったのは内部のあり方だけだからです。要は、多数派と少数派の勢力図、正当と異端の境界線の引き方が変わっただけのことで、同じ共同体の中のグループの組み換えが起こったにすぎないからです。 一例を挙げましょう。封建社会は不平等で、下層階級は抑圧されていました。貨幣経済が浸透するとたしかにこの階級社会は崩れました。しかしその結果平等が達成されたわけではなく、何でもカネの時代は新たな貧困問題を生み、格差の固定化をもたらしました。この例は極端すぎるかもしれませんが、多くの場合、歴史の進歩は、「今の落とし穴から抜け出るために別の落とし穴に落ちること」であるといういい方が、できそうです。そういうことを考えると、多数派とか少数派とか、抑圧とか解放とか、歴史の進歩とか保守反動だとかいいたてることが、そもそもばからしく思えてこないでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016.11.05 11:09:02
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