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2016.11.19
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 現代日本では、いい大学を出た人が頭がいいといわれます。この場合、いい大学とは入試が難しい大学ほどの意味です。しかし私には十代後半の一時期に、やり直しのきかない一度きりのテストで高得点をとることがなぜ頭のいいことになるのか、よく分かりません。


 頭がいいといってもいろいろな意味があるでしょうが、おそらく現代人のいう頭のよさと昔の人のいう頭のよさはちがっていたと思います。現代人のいう頭のよさとは知識の多さや情報処理の速さぐらいの意味でしょうが、こういうものは昔は「才」(才覚)と呼ばれていました。そして「才」とは「量」(度量)などとはちがった意味であり、品格や見識ほどと比べればさして重要でない、特殊技術ぐらいに見なされていました。たとえば中国明代の学者・呂新吾は『呻吟語』の中で、「聡明才弁」を「深沈厚重」「磊落豪雄」に劣る三等の資質にあげています。江戸の儒者・佐藤一斎も『言志四録』の中で、「(才と量の)両者兼ぬることを得可からずんば、寧ろ才を捨てて量を取らん」といっています。


 近代になって「才」が重んじられるようになった背景には、勉強や仕事をする上で「才」の力が見逃せないものになったからでしょう。しかし、人間の有する精神の機能の中で、「才」とは要するに悟性の働きであり、感性や理性の働きではありません。要するに近代社会は、人間のもつ数々の力のうち、ごく一部の伸長を過当に評価する、いささかバランスを欠いた社会だということがいえそうです。私には十代後半時点で知識の多さや情報処理の速さを競うことよりも、感受性を豊かにしたり意志を強くしたりする方がはるかに重要だと思いますが、これは「頭の悪い人間の負け惜しみ」と笑ってくださっても、一向にかまいません。





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最終更新日  2016.11.19 21:00:06
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