062235 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

凡又凡

凡又凡

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

大旗無風流

大旗無風流

フリーページ

カレンダー

お気に入りブログ

まだ登録されていません

コメント新着

コメントに書き込みはありません。

ニューストピックス

2016.12.24
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類
 教育のかなめは知育・徳育・体育だといわれますが、その定義は人により異なります。私の定義は文科省とはちがい、知育は知的能力を伸ばすこと、徳育は同級生との人間関係を学ぶこと(道徳とは関係ない)、体育は自分の体の使い方を学ぶこと(体力強化とは関係ない)ぐらいのものです。すると、知育と、徳育・体育で決定的にちがっていることがいくつかあります。


 まず、知育は誰もが正しい答えを出すように導く訓練ですが、徳育・体育では生徒の個性を無視することができません。また、知育では答えをまちがえてもけがはしませんが(できなければ恥をかく程度です)、徳育と体育ではこととしだいでとり返しのつかない精神的・身体的傷を負うことがあります(ときには死にます)。加えてこれが一番大きなことですが、知育は生徒にとって受動的に「教えられるもの」ですが、徳育と体育は生徒にとって能動的に「学ぶもの」です。つまり徳育も体育も、自主的な試行錯誤を通して、心身ともにずたずたに傷つきつつ、命がけで体得してゆくものであり、学校がその残酷な環境を用意するわけです。


 昨今では、小中学校などで学科をきちんと教えていないといって、親がどなりこんでくるなどともいわれます。しかし私などは、知育は家でもできるのだから、むしろ学校は徳育や体育に特化するべきだと思っています。もちろん、知的能力があれば、偏差値の高い大学へ行けるし、社会に出てから有利かもしれません。そうだとしても、たかが現代という一時の社会の枠組みの中でうまくふるまえるかどうかというのは、附属的なことではないでしょうか。親たちが知育偏重になるのは自分たちが偏差値教育で育ってきたからで、そこに何の反省もないまま、子にもまた同じ轍を踏ませようとしているのではないでしょうか。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2016.12.24 11:05:26
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.
X