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昔の文系学生には、教養課程(一年・二年)で読んでおかねばならい古典というのがあり(日本文学全集、外国文学全集など)、また専門課程(三年・四年)に進めば、その専攻ごとに読んでおかねばならない外国語の古典がありました。教授の指導の下、参考文献を参照しながらそうした古典の一節をとりあげて注釈をつけるのが研究で、自分の意見を述べる機会は与えられませんでした。何しろ、戦前生まれの教授は、「欧米に偉い人がいるのだからそれを研究すればよろしい、敗戦国民が自分の意見など述べてはいけない」という考えの持ち主が大半でした。
70年代以降、大学進学率が急伸すると、そういう学風にも少しずつ変化が起こり始め、学生が文献を勝手に読み出すようになりました。旧世代の教授たちが引退を始めると大学はいっそうたががゆるみ、レジャーランド化が進行しました。やがて教養課程がなくなり、大学院の定員が増えるなど大学教育の変質が起こって、90年代後半には「今の学生は英語どころか日本語もできない」などといわれ、分数のできない大学生が話題になったりもしました。 今の文系学生は、論文を書かせると、自分の主張を述べるには述べるそうですが、持説を補強したり、反対意見を論理的に批判検討したりすることができないようです。四十年来の、完結したテクストを精読する経験の不足、文学的教養や数学の軽視のつけが、結論を出し急ぐ最近の実学傾向とあいまって、ここに影響しているのかもしれません。ただ私個人は、外国語のテクストを丹念に読んで注釈はつけられても自分の意見をもてない昔の文系と、日本語であたりさわりのない意見を述べられても論理的思考の苦手な今の文系では、五十歩百歩だという気がします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017.01.28 11:41:25
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