『K2』 世田谷パブリックシアター 2010年11月22日14時開演 1階N列センター
作:パトリック・メイヤーズ
翻訳:小田島雄志
演出:千葉哲也
キャスト: ハロルド・・・・・堤 真一
テイラー・・・・・草なぎ剛
ストーリー(パンフレットより)
標高8661m。世界大の高峰「K2」登頂を果たした物理学者ハロルドと地方検事補テイラーだが、
その栄光から一転、下山途中の8100m付近で遭難してしまう。
零下40℃以下、酸素も薄く、寝袋もテントもない極限状態の中で、
どうにか一晩を明かしたものの、ハロルドは足を骨折していた。
氷壁のレッジ(岩だな)で身動きが取れなくなった2人。
容赦なく襲いかかる大自然の脅威を前に、問わず語りに互いの人生を話し出す。
青春の日々、仕事、日常、哲学、家族や女たち・・・・・。
「死」を意味する暗闇が刻々と迫る中、残された1本のザイルに2人の男の運命が託された-。
まず、なんといってもこの舞台を観れたことに感謝です。
本当に激戦でしたからねぇ(^^;)。
そして観終えてやっぱり感謝です。
いい舞台でした(^^)。
セットは極めてシンプル。
巨大な氷壁。そして2人がなんとかしようともがいた氷壁の中のレッジとその周辺。
私が観た席からは、それほど氷壁そのものの高さを感じなかったのですが、
初日に3階席からも観た友人によれば、ステージは通常の床よりも低いところまで氷壁があったそうで。
つまり、まさに奈落へ落ちていくかのような深さがあったと。
だから本当の絶壁みたいだったそうで、かなりの迫力と同時に怖さも感じたのだとか。
1階席からは、正直言うとそこまでの高さや深さを感じなかったので、ちょっと残念。
とはいえ、舞台の途中何度も手に汗握る場面があって。
そこらの緊迫感や見せ方はさすがにふたりともウマイなぁと。
2人がレッジの上にいる。
「K2」登頂に成功するも下山途中ハロルドが足を骨折したため、一晩を過ごしたのだ。
そこでの一声が、「俺たち生きている!」だったのがこの場の過酷な状況を一瞬にして伝えていた。
「装備点検!」の掛け声が大きく響く。
この時点での私はまださほどこの過酷な状況をこの身に実感していない。
当たり前といえば当たり前なんだけれど、それが物語が進むうちにどんどん引き込まれていった。
2人して助かるために何度も氷壁を登るテイラー。
途中で落としてしまっていたザイルをなんとか取り戻そうとあがく姿に、
気がつけば息を呑み、ヒヤッとさせられ、劇場全体が息を止めていたのでは?と思えるほどの静寂だ。
そんな中聞こえるのは装備や道具を扱う音、荒い息遣いと吹きすさぶ風の音だけだ。
そしていつの間にか問わず語りに2人のこれまでの人生が話される。
お互い、その話に驚いたり突っこんだり反論したり。
そして認め合う。
どんな生き方をしてきていようと、今、この山にあってお互いを支えているのは信頼であると。
テイラーが地方検事補として生きてきた日常の中、あまりにも多くの犯罪者を見すぎてしまったせいなのか、人と、とくに女性と深くかかわることを避けてきたことが明かされる。
これはわかる。
・・・個人的には好きではない生き方だが理解できなくはない。
けれどそんな人生を心底楽しめていたかといえば、決してそうではなかったのだろう。
だからテイラーは山を求めた。
自分をさらけ出すことのできる唯一の場、として。
そしてそんな自分をありのまま受け入れる山登りパートナーとしてのハロルドは、たぶんテイラーが意識している以上に大切な存在で。
男女ではないから「愛している」だのなんだのとは言わないよね(笑)。
けれどテイラーからすればそれ以上に大事な、大切な「信頼」をささげている。
方やハロルド。
物理学者として研究に励み、信仰心を持ち、愛する家族もいる。
一見恵まれた環境の彼が、それこそ、なぜ山に登るのか。
日常の仕事がテイラーとは間逆の俗世間にまみれていなからこそ、地に足をつけ生きる実感を得るには最高で最強な山を選んだのだろうか。
パンフにもあったのだけれど、自身がそこまで結び付けていなかった物理学の研究と山登りが、遭難したことで、そして「死」と向き合わざるを得ない状況下で初めてその本当の意味を見出す。
・・・ま、そこらの哲学的ともいえる会話は、正直言えば私はあまり理解できたとはいえないのだが(苦笑)←物理苦手だったし
でもそれはテイラーもいっしょだったようだ。
わけのわからない物理学や哲学、そして(テイラー自身は信じていない)信仰、妻や子供への愛といったことを語り続けるハロルドを半ばあきれ、半ばどうやらうらやましく?思いつつ耳を傾ける。
合間にばかばかしい青春の想い出や失敗談も交えつつ。
でもそれはハロルドもそう。
テイラーの生き方はハロルドにはできないし共感もできない。
たぶんふたりは日常生活の中では交じり合うことはないし、私生活さえもほとんど知らないと推測できる。
けれど、「違う」ことを認め合うふたりがそこにはいた。
だからこそ山のパートナーに互いを選び、「命を預けるに足る信頼」をそれぞれが持ちえたのだろう。
極限状態で互いが見せた、見せてしまった「素」の自分。
テイラーは検事補とはまるで見えない子供っぽさを見せる。悪態をつく。
現状把握はしている。
そのうえで二人ともに助かるために行動することに何のためらいも見せない。当たり前の前提としている。
そのための努力を惜しまないしあきらめない。
仕事でいやというほど見せつけられてきた不条理に、この場で自分たちが向き合わねばならない現実が重なっているのか激しく熱く抵抗する。
けれど本当はわかっているのだ。
わかっていて抵抗しているのだ・・・ハロルドが助かる見込みがないことを。
けれどそれが許せない。認めたくなくてあがいてもいた。
そんなテイラーのこと、そして現状を冷静に理解し、見守り、そしてもちろんできうる限りの努力はしたハロルド。
脚の負傷で動けないからこそ語るハロルドの話は多岐にわたる。
最初は余裕たっぷりと、時に真剣に、そしていつしか理路整然としつつもたぶん珍しいであろう熱さも垣間見せる。
その熱さがかたくななまでにふたりいっしょに山を降りることに固執するテイラーの気持ちを溶かす。
山が容赦く二人の希望を打ち砕いていくなか、刻一刻と暮れてゆく空。
最初は晴れ渡る青空だった。
風が吹きつけ雲が移ろい雪が舞う。
いつしか日は沈み闇が迫る。
(この空の演出が秀逸だった。)
山はただそこにあるだけだ。
悠然と。
そして冷酷に。
人はそれを受け入れるしかない。
ハロルドの人生を受け止め、愛情の伝達を受け入れ、生きるために、生き残るために山を一人降りていくテイラー。
ザイルに託されたのは二人分の人生。
一人残されたハロルドがためらいを見せ、大いに揺らぎ、けれど慟哭とともに手放したまさしく命綱のザイル。
一人きりになってようやく見せた悪態がなんともいじらしくかわいらしく、切なかった。
広い舞台なのに、動ける範囲は極めて限られていた。
岩棚はせいぜい2m四方。
それを取り囲む氷壁をよじ登り、あるいはロープを伝って降り、時に上からロープ一本で落ちそうになるのはテイラーだけだ。
本格的な登山にはまるで素人の私だが、めんどくさく難しそうな登山用具をひとつひとつ丁寧に、けれど慣れた手つきで扱って登りながらの会話は本当に大変だったと思うが、さすがに上演期間も後半だったせいか違和感なく観ていられた。
ハロルドはといえば、脚の負傷のせいで動けるのは岩棚の上だけ。しかも脚は前に投げ出したままの姿勢で座り込んでいるだけだ。
けれどこの動きも少なく範囲も狭い中、当初語ったようにいつしかその世界に惹きこまれ、時に笑い、じんわり涙ぐみ、ヒヤリ息を呑み、切なく熱くやるせなくなった自分がいた。
そして・・・海辺に佇むキタキツネの後姿が確かに見えた。
たった一日。
けれどこの日、ふたりはどれほど濃密な時を共有したのだろうか。
命を託し託され。
けれどだからといって、その後テイラーがどうなったのかの答えはない。
もちろんハロルドのその後も。
山に愛されすぎて、テイラーまでもその懐にいだかれてしまった可能性だってありうる。
逆に奇跡が起きて、山がやさしくハロルドを返してくれることだってないとはいえない。
宗教も物理も正直よくわからない。
けれどそれでもこれだけはいえる。
どんなこともありうるのが人生なのだと。
そのどれもが人生なのだと。
目の前の現実を受け入れ、進むしかないのだと。
キタキツネの話は輪廻だよね・・・と友と語り合った終演後。
キリスト教は輪廻を認めていないのだとか?
だったらなぜ?とは思ったが、やっぱりどれもありなのだろう。
自分が信じたいことを選択したのなら、それでいいのだと。
ハロルドはきっと生まれ変わりまた山に登るのだ。
そしてまたテイラーのようなパートナーを得るのだ。
私はそう思えた。
カーテンコール。
やりきった!という笑顔のふたりがそこにいた。
堤さんが立ち上がっていたことに一瞬びっくりしたのは内緒(笑)。
そう、座り込んでいる姿があまりにも当たり前に見えたから。
つよぽんの無邪気な笑顔もまぶしかったなぁ。
あの熱さは、怒りは、どこにあったのかと思うほど。
深々と頭をたれる二人にせいいっぱい送った拍手。
久しぶりに手が震えて汗をかいて湿っぽかった。
そんな自分の手にびっくりしたのも内緒にしておこうかなー。
いやいやいや。
「宝にします」
ありがとうございました。