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カテゴリ:私の歴史
もう40年も前の、昔の話だが・・・。
今日、blog友達のケセラセラHBさんのご子息が英検準2級に合格したというblog日記に寄せて私は、高校時代に英会話のトレーニングの為、横浜や横須賀に出かけて、ベトナムの戦地から休暇に来ているソルジャーを捕まえて、会話の訓練をした事を書いた・・・・。 当時、ベトナム戦争真っ只中で、米兵は休暇で日本へ沢山来ていたが、米国人ばかりと思っていたが、アメリカ国籍を得たいがために兵に志願している外国人が多いのにも驚かされた、実際にアメリカ国籍を得たときには棺おけの中という若者も多かったに違いないのだ。 せっかくの休日でも彼らが行くところは限られていたように思う、つまり当時の日本にはあからさまな赤線のような場所は無く、バーやキャバレーなどに行くのだろうが、生死の狭間をさまよう戦地のストレスを優しく慰めてくれるような女性に全員が出会えるわけではなかったろう・・・・。 そんな彼らの休日に、日本人の高校生が話しかけて、しばし付き合ってもらえたのだが、必ずといって良いほど、「姉さんはいるか?」と聞かれたものだ・・・・。 居るとでも答えようものなら大変だ、「此処に呼んでくれ」とか「紹介してくれ」とか・・・「美人か?」等とよく言われたものだ・・・・。 率直に言って女に餓えているわけなのだ・・・・。 30分ほどいろいろな話に付き合ってもらって、ベトナムのジャングルや飛行機から見た美しいベトナムの海のことや・・・故郷の家族の写真を見せてくれる人も多かったが、戦場で仲間を失ったことなどで涙ぐむ若いソルジャーも居て、平和な日本に住む自分が申し訳ないほどに感じたものだった・・・・。 そうしてしばし話して、【さほど英語が得意と言うわけではなかったが意外にも殆ど言葉は通じていた】、別れる時には、握手し、お礼を言ったが、アメリカに来ることがあったら是非たずねて来てくれとよく言われたものだ・・・・実際に住所を書いて渡してくれる人とも居た。 そんな経験は私の級友が英語クラブの部長をしていたことで、「今度の日曜日に一緒に行かないか?」と誘われて、何度か一緒に行って経験しことだったが、そんな経験も実際に役に立つこともあったのだった。 大手照明器具の会社(秋葉原に本店のある・・・・電器)の下請けの会社に居た時代、沖縄の海洋博のためのホテル建築の現場にシャンデリアを取り付けに行ったおり、毎日これでもかと言う真っ青な海を目の前にしてその海に入れない悔しさを味わっていた・・・・。 仕事が終わって、土日の2日間の休日が取れた時、同僚はみんななぜか那覇や名護の風俗店に行きたがって、泊まっていた真っ青な海の満座ビーチ前のモーテルをさっさと出て行ってしまったが、私一人そこに残って、旅行カバンに忍ばせてきたフィンとグラスマスクとシュノーケルを持ち出し、満座ビーチで二日間を過ごしたのだった。 美しい満座の海でスノーケルダイビングをして砂浜で休んでいると、外国人が話しかけてきて、仲良くなって、一緒にフットボールで遊んだりした、英語は人によってずいぶん話し方が違って、聞きやすい英語を話す人は、やはり・・・インテリと言うか、ファントムのパイロットだったりナビゲーターだったりするのだった・・・つまり・・・こちらの英語力に合わせてゆっくり単純明快な言い回しで話してくれていたと後で気が付いた・・・・。 飛行機少年だった私は米軍のジェット戦闘機の知識も豊富だったので、ファントム戦闘機をマグダネル・ダグラスF4ファントムと言うのだが全然通じなかった・・・・マグダネルの発音のアクセントが後半にあるのを私は前半にアクセントをつけてしゃべっていた為であると後にわかったが、彼らは戦闘機にメーカー名を言うことは習慣に無い様だった。F4ファントムと言えばそれで良かったようだった・・・・・。 たった二日間だったが、初対面にもかかわらず旧来の友のように付き合ってくれて、食事にも誘ってもらったり、ビールも沢山頂いたり、とても楽しい週末を過ごした記憶が鮮明に残っている・・・。 少しは高校生の時のあのトレーニングの経験が役に立ったのだろうと思った・・・・。 私はその後その照明器具の製作会社に結婚後まで居たが、結婚後一年ほどでその会社を辞めてしまう。 上司との人間関係が悪く、神経性胃炎と診断されていたが、どうしても直らずに胃に穴が開いてしまうところであったので、辞めて、知り合いだった千葉県のタイヤ店の社長に働き口を紹介してもらえないかと相談したところ、しばらくうちで働いてみないかと言われて、厄介になることにしたのは、長男が生まれてすぐの頃だった・・・・。 毎日ツナギの作業着で、修理工場などにタイヤを収めたり、パンク修理をして届けたり、体を使って汗を流して、作業着は泥で汚れて帰るそんな毎日だったが、精神的ストレスからは開放されていたのだろう、いつしか神経性の胃炎は治っていった・・・・。 そんなある日、京葉道路市川インターの近くの自動車修理工場にタイヤを届けた時、一台の車がレーッカーで入ってきて、若い外国人がレッカーから降りて来た。高速道路で車が故障し、JAFがレッカーで出動して引っ張ってきたのだった。 大きな修理工場ではあったが、社長以下専務も工場長も英語がダメらしく辞書を持ち出して困っていたのだ。見かねた私は、「手伝おうか?」助け舟を出してみた。工場長はびっくりしたように私を見たが、すぐに「判るならチョット頼むよ」と言われて・・・にわか通訳を買って出たのだ。 若い外国人はアメリカ人で、成田空港へ向かっているので、どれくらいの時間で修理が出来るのかと、それだけを知りたがっていた。 私は修理担当者にどれぐらいかかるかを聞いて、「Wait for half an hour」30分待って、と答えてやったが、たったそれだけも通じないという、その外国人のもどかしさが本当に気の毒に思えた・・・。 次に、「ハイテンションボルトが無いので普通のボルトで締めておくから、今日の用事が済んだらなるべく早く自分の行きつけのガレージで正しい規格のボルトに交換してください」と言った趣旨の説明をした。プロペラシャフトのデファレンシャル側のヨークジョイントの取り付けボルトが脱落して動力がデフに伝わらなくなって止まっていたというわけだった。 後日、タイヤ店の社長がその話を修理工場の社長から聞いてきて、「いたく感心して感謝していた」と言っていた。片言でも英語を話す人は少なかった時代と言うことだが、まさかタイヤ屋のオニイチャンに英語で助けられるとは思っても見なかった。・・・と言うことだったらしい・・・心なしか?それからそこの自動車工場に行った時の工場長の対応が妙に優しくなったような気がした物だ・・・・・笑。 ほんの少しでも、英語を話せることが役に立つことを身をもって知ったわけだが、それも、生の英語を街角で話す度胸と言うか、慣れというか・・・そんなことを高校時代に経験したことが無駄ではなかったと思える出来事だった・・・・・。 そんな、遠い昔の記憶を今日は思い出しました・・・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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