テーマ:韓国!(17198)
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昨日の続きになりますが、それでは百済が滅びながらどのように日
本の中でその力をつけていったのでしょうか? もちろん百済が滅びる前から、百済はもちろん、新羅も高句麗も、 そして、小さな伽耶(任那)まで日本に来て、その勢力争いをはじめ ていたわけです。 その中で政権を握ったのが百済だったのですが、その流れを韓国に いる友達が詳しく説明してくれました。彼女(実は女性)はどの文 献から調べたのか教えてくれませんでしたので、『あ、それは何々 の文献』とご存知の方は教えてください。 あくまでも、ここは私の日記ですので、大学の先生たちが行う学会 などのような専門的な意見を話し合う場ではありません。 関心のある方に読んで頂ければ、それでいいわけです。 そして、この内容が絶対と言うわけではありません。 私が書こうとしている小説の材料の一部をご紹介するだけです。 これからの内容は友達の教えてくれた内容です。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ まず有史以前から朝鮮半島から渡来してきた人たちによって日本人 が形成されたので韓国人も日本人も元は同じなのですが、そのよう な中で、製鉄文化をもった伽耶系のスサノオ族(スサノオノミコト =天皇家の祖)が渡来し、高句麗系の先住民(ヤマタノオロチ)に変 わって出雲を中心に日本海側の国家を治めたようです。 伽耶は日本式には任那で、任那の韓国語発音はイムナ、イム(君主) のナ(国)つまり天皇家の出身地という意味です。 伽耶(任那)は新羅と百済の間に位置していたので、ある時は新羅に 支配され、ある時は百済に支配されました。 その影響で日本の天皇も新羅系、百済系がありました。 東漢一族は百済系の伽耶人で蘇我氏の祖です。 蘇我氏はご存知の通り天皇家の外戚であり実質的な支配者でした。 聖徳太子も蘇我氏の血統ですが、百済、高句麗、新羅の文化や学問 をそれぞれ取り入れ、優れた仏教文化である飛鳥文化を形成した人 物です。 その頃百済は内部闘争があり義慈王のクーデターで百済の支配層が 変わりました。 その流れをくむ人が中大兄皇子と中臣鎌足(百済王族)です。 白村江の戦いの時援軍を送ったのは中大兄皇子でした。 (結局百済は滅びましたが) 中大兄皇子と中臣鎌足は日本(倭国)に自分たちの百済政権を立てよ うとしました。 中臣鎌足は藤原の姓を受けましたが、「百済倭国」を昔の発音で読 むと「フジェワラ」、沖縄の発音で読むと「フジワラ」だといいま す。 新政権には旧百済系であり新羅の文化も取り入れている蘇我氏や聖 徳太子が目の上のたんこぶでした。 百済滅亡から少したって、日本では百済色をはっきりと示す藤原不 比等(鎌足の次男)が台頭し、そして百済王系の高野新笠を母にもつ 桓武天皇が即位しました。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ やっと平氏の登場まで来ました。 約束の『源平合戦』までには、まだちょっと時間がかかりそうです ね。 また明日をお楽しみに。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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