カテゴリ:ちきゅう
大学時代の話です。
「現代社会の諸問題」という、一般教養の講義の初日に出された課題で、担当教官が書いた論文“社会的「底辺層」と「われわれ」の関係性についての一考察 ~野宿者に対する「差別」と「支援」を中心に”(田巻松雄)を読んで2千字程度の批評・感想を書け。他の論文は読む必要はない、引用も特に必要なし。というものがありました。 この課題、私は提出することができませんでした・・・ 単位は一応取れましたが「優・良・可」のうち「可」でした。 単位のことはともかく、この提出できなかった課題が心の奥にずっとずっとひっかかっていました。 いつか課題に取り組みたいと思っていました。 今日がその第一歩になるかもしれません。 この論文は本当にたくさんの示唆に富んでおり、このブログでも機会があれば少しずつ紹介していきたいと思っています。 今回はその中から、こどもや野宿者にボランティアとして関わってきた私が、最も考えさせられた部分のひとつについて書いてみたいと思います。 以下は、第4章第2節“支援と「市民」に対する意識の問題”から引用。 * * * * * * * * * * 支援への関わりを通じて感じやすい優越感は、被支援者に対するものに限定されるわけではない。 (中略) 社会からの排除や攻撃が野宿者を追い詰めているのに、なぜ一般の「市民」は無関心を装い何もしようとしないのか、そして差別意識を持ち続けるのか。この種の怒りや不満が、支援活動を支える正当な原動力の1つであることもまた確であろう。しかし、支援に関わるということが、次のような意識を醸成しやすいという点にも留意が必要である。それはつまり、支援している自分は一般の市民とは違うのだと感じる意識、野宿者を追い詰めている市民社会の加害性から自分は免れているのだという意識である。 (中略) 「市民社会」の加害者性を問題視して闘っていく姿勢は重要である。しかし、支援しているということ自体は、決して自分自身の差別意識や「市民社会」の一員であるという加害者性を免罪させるものではないし、自己優越感との関連で生起しやすい「市民社会」への批判は、自己批判へと立ち帰らせる内的契機を持たない。差別や加害者性というイメージに基づく「市民社会」への固定的な観念、そして自分は一般の「市民」とは違うのだという優越感、こうした意識や感覚を支援する者が持つ場合、「市民社会」に対する過剰な敵対意識が醸成されることにもなる。この種の意識を伴う支援が、われわれ(野宿者と支援者)対「市民社会」という対立図式を強め、社会の状況を野宿者にとってより住みにくくさせてしまうという可能性も否定できない。 * * * * * * * * * * 長い論文の一部分なので、これだけを読んでも分かりにくいかもしれないですね。。 ただこの部分は、野宿者支援に関わっていなくてもまたボランティアをやっていなくとも誰にとっても考えさせられるものがあると思います。 論文を読んだ当時の私はボランティアの端くれで、暇があれば(いや、暇を作っては)ボランティア活動をしていました。 ボランティアが楽しいと思っていました。 「それまで未知であったものを理解したような気になる楽しさ、ごく小さな親切を行って相手から感謝される楽しさなど」、それが「アヘンとしてのボランティア」と言われるものだということは後ほど理解しました。 釜が崎で日雇い労働者として働きながら、野宿者支援に関わっている方が「おっちゃんらは、あんたらのためにおるんやない。」と言っていたことを思い出します。 私たちが「よい経験」をするため「勉強」するために、おっちゃんたちがいるわけではないのです。 そして、施設のこどもたちも、障害のあるこどもたちや大人たちも、体が不自由になったお年寄りたちも、そうですよね。 私たちひとりひとりは社会の一員として、このようにより弱い立場へと追いやられている様々な人々との関係をどのように捉え直し、どのような関係を作り上げていくかを問われていると思います。 個人的な出会いの中でお互いの気持ちをぶつけ合いながら、共に考えていく姿勢が必要だと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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