【初詣に行って福岡の歴史を学んできました】
近くの八幡様は由緒あるお宮さんでした 初めて行った橋本八幡宮は早良郡橋本村の産土神(うぶすながみ)で、神木の女マキと男マキが鳥居をくぐった左右にあり、奥にはクスノキ(427)とイヌマキ(428)が下から5Mの所で繋がっている【きずな】と命名された保存樹があり、ぼけ封じの幸神社や,さやの神社などのちっちゃな社があり、鬱蒼と繁る鎮守の森のマキの大木に歴史を感じました。黒田藩2代藩主忠之の長子光之は、黒田騒動のころ、橋本八幡宮の境内北側にある、黒田藩別館【御茶屋】で生まれ、橋本八幡を創設した柴田氏によって手厚く守護されてたそうです。なんでも生母が柴田氏の身内であったとか。黒田光之公は幼いころから八幡様に「感謝の誠をささげます」と祈願した通り、3代藩主となった1842年に参詣しやすい西新(西新パレスあたり)に遷宮し当時の地名を取り紅葉八幡宮としました。以後福岡藩と黒田藩の守護神として庶民にいたるまで崇敬されたそうです。正面の大鳥居に梶井宮慈胤親王筆の黄金額を掲げ、3人の家士を鳥居下に居住させ3交代で警固させたとか。これが西新の居住者の始まりだそうです。貝原益軒の筑前続風土記によれば、百道松原とか紅葉原といわれる不毛の地だったそうです。西に新しく出来たので西新と言われ、神社の門前町が次第に発展し商店街となりました。今の西新小学校は昔は紅葉小学校と言われていたそうです。遷宮した後の橋本には参拝所が新しく作られ、紅葉八幡での行事には一番前には橋本の氏子?が並ぶそうです。紅葉八幡宮は大正4年に今の高取に移転し、その前の道は長崎道(旧道)と言われていたそうで、どこまに続くか行きましたら、野芥口手前で今の早良街道(脇山口~三瀬)に出会うまでひたすらまっすぐに伸びていました。