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日本大好き、好きです早稲田日記

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2006年09月07日
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カテゴリ:国内政治
 松平永芳靖国神社宮司の記録を調べていましたら、「東京教育懇話会」での会合で、二回ほど講演の記録が出てきました。講演は昭和六十年と六十一年に行われ、戦犯合祀問題と総理参拝問題が争点となり、官邸に「靖国懇」が設置され国際問題として靖国問題が扱われていた頃の話です。
 以下の文章は、講演内容を事務局がまとめた要旨ですが、松平宮司の肉声を忠実に再現しており、少なくとも、「富田メモ」などに比べれば、遥かに精度の高い内容ですので、ここにご紹介いたします。
○第二五二回(正月)例会報告 昭和六十年正月十八日(月)
 私が宮司の辞令をうけたのは昭和五十三年のことである。就任してすぐ定年制を布き、宮司の定年を七十歳と決めたから残すところ二年ばかりとなる。靖国神社は神社本庁に属さない一種の独立王国のやうになつてゐるが、さういふ形態の中で上の方がいつまでも頑張つてゐては下への励みにならないと思ひ定年制を採用した。これは他の神社にも少なからぬ影響を及ぼした。靖国神社は戦死者の遺族によつて支へられてゐる部分が多いが、遺族の老齢化が抜き難い現実として存在する。現在、息子さんを亡くした親御さんに八十歳以下の方は無くなつてゐるし、主人を失つた未亡人に五十五歳以下の方はほとんど無い。遺族の老齢化が進むにしたがつて、祭神との絆が減り、支へは日一日と取払はれてゆくといふ難かしい情況にある。そこで私は就任した年に、はなはだ役所的な表現だが「靖国神社整備十ケ年計劃」を立てた。大きな改築などをこの十年間に済ませ、この間の整備で百年の御安泰を確保したいと考へたからである。いろいろな方々の御尽力で順調に運んだが、現在着手しつつある遊就館は視聴覚機材などを活用した教育の場にしてゆきたいと思つてゐる。といふのは、出撃直前に両親に宛てた特攻隊員の遺書などを長い時間ながめてゐる高校生の姿をよく見掛けることがあるからで、おそらく自分の年齢にひきあててみて思ふところが多いのだらうと思ふ。かういふ彼等に神社の由来、祭神の性格などをわかりやすく伝へ、世代交替に備へたいと思つてゐる。

 私は靖国神社を国民総氏子の神社だと考へてゐる。氏神様に対して春秋なにがしかの奉賛をするやうに、国民が少額多数で支へる、それが本然の姿だと思つてゐる。したがつて、靖国神社国家護持法案に私は反封する。この法案に関しては衆議院法制局が合憲といふ見解を示してゐるが、政教分離に抵触しないやうに神社祭式も祝詞も不可といふことになつてしまふものであり、私が戯れに[靖国神社空中分解法案]と呼ぶのはそれが本質をはなはだしく無視した法文であるからである。大体、一国の総理が胸を張つて参拝することの出来ない情況で国家護持もなにもあつたものではない。かう言ふと、善意からこの法案制定を推進してゐる方々が「宮司けしからん」とおつしやるが、それは実際にこの法案に目を通したことが無いからである。国家護持法案が通れば今のままの靖国神社が維持しやすくなるだらうと、戦前・戦中の常識的な考へをもとに判断するのは大きな間違ひである。

 この法案で運営されることになれば靖国神社は先づ神社でなくなつてしまひ、政府に牛耳られる結果、他のなんとか公園などと選ぶところのない性格のものとなるのは確実である。

 私の思ふところ、絶封に崩してはならないポイントが三つある。第一は神霊をお慰めするには我国伝統の神道祭式をもつてすることである。第二に御本殿、境内のたたずまひを変革しないこと。古くなつたからといつて壮麗華美なものに変更することはナンセンスである。

 「靖国で会はう」と散つてゆかれた祭神は現在のお社の姿を思ひ浮べてをられたわけである。したがつて戦前からの姿を推持することが必要である。第三に、明治天皇の命名し給うた社名を踏襲して改称しないこと。以上である。祭式と神社のたたずまひ、ならびに名称に変更をきたすことは本質を根底から覆す結果につながつてゆくからである。護持法案が適用されるとこれらの条件はすべて吹つ飛んでしまふ。私の反封する所以である。

 生涯のうちで意義のあることをしたと私の自負することができるのほ、いはゆる[A級戦犯]を合祀したことである。就任三ケ月後、昭和五十三年、秋の例大祭のときのことであつた。[A級戦犯]の合祀については、議事録によれば、昭和四十五年に承認を得てゐる事柄であつた。ところが、時期をみはからつて、といふことで、宮司一任のまま放置されてゐた。B級、C級戦犯は既に昭和三十四年に合祀されてゐる。B級、C扱がよくて、A扱がいけないといふ根拠は何か、大体、さういふランクを誰が決めたんだ、と考へてゆくと、結局、占領軍のやつたことだといふことになる。現行憲法の否定はわれわれの願ふところだが、その前には極東軍事裁判がある。

 この根源をたたいてしまほうといふ意図 のもとに[A級戦犯]十四柱を新たに祭神とした。そして[A級戦犯]の呼称は御霊を呼ぶにふさはしくないと考へ、「昭和殉難者」とお呼びすることにした。これは当社の諸記録に徴し、幕末殉難者、維新殉難者と呼称してゐる実情に沿つたものであり、然るべき処置だと考へてゐる。
 

○第二六四回(二月)例会報告 昭和六十一年二月十七日(月)
 靖国神社が政治問題の渦中に巻き込まれることを避けること、このことは宮司の私が常に心を砕いてきてゐるところである。二百四十六万柱の神々を背に負ふ身としてはこれは当然の心得であつて、マスコミに対してコメントしない理由は、ジャーナリストは言つた通りを伝へないといふ不信の念が根底にあるのは勿論だが、それ以上に私の発言が元になつて神社が騒々しくなつては祭神に封して申訳が立たないといふ気持がはたらくためである。したがつて、昨年の大晦日に朝日新聞が「A級戦犯合祀の意向、靖国神社宮司が示唆」の見出のもとに、あたかも私がインタビューに応へたかのやうな記事を掲載したが、根も葉も無いつくりごとで、そのやうな事実は全くない。年が改まって正月六日の読売新聞朝刊は「A級戦犯合祀取りやめ、自民靖国に要請、神社側は拒否」といふ記事で一面を飾つたが、これも事実ではなく、靖国神社が自民党とかかる取引をしたことや相談に応じたことなど一切無い。ただし、自主憲法期成同盟の清原事務局長が自民党の金丸幹事長の使者に立ち、A級戦犯を祭神から外すことはできないかと権宮司の許に言つてきたことが一度あつた。勿論、そんなことはできないと答へた。神道の本来の考へ方からいへば、一度靖国神社に祀られた上は御霊はそこに留りますのであり、たとへお移し申し上げても、それは分霊に過ぎないからである。この読売の記事は、卒読すると、神社と自民共に裏交渉があるやうな印象をあたへるが、事実無根といふほかはない。[火の無いところに煙は立たない]と俗にいふが、こと靖国神社に関する限り、火の無いところに煙の立つてゐるといふのが現在の情況である。このやうにいはゆる[A級戦犯]の合祀についての論議はやかましいことだが、これは自民党のトップ筋が無分別なことを口にするために世間一般が混乱してゐるに過ぎず、靖国神社は正式な手続にのつとつて[A級戦犯]の合祀を行つたまでのことである。

 講和条約発効後の昭和二十八年五月十八日から八月十日に亙る期間、第十六国会が開かれたが、この国会において「東京裁判受刑者等に関する特別措置」が審議された。これはいはゆる[戦犯]、(役所の呼称では「法務死亡者」)も戦没者と全く同様の取扱をするといふ議案の審議で、七月二十三日の衆議院厚生委員会で決議され、この決議に基いて恩給受給資格を持ついはゆる「戦犯」に対しては恩給法により、それ以外の「戦犯」に封しては遺族等援護法によつて、それぞれの遺族に対し戦没者遺族に対する場合と変らない待遇がはかられるやうになつた。この体制によつて、厚生省は戦後を開始したのだと言つてよいだらう。「法務関係遺族に対する戦傷病者戦没者遺族等援護法および恩給法の適用について」といふ昭和二十八年九月十五日付の京都府民生部から送られてきた通知が資料として私の手許にある。その内容は要するに、昭和二十八年四月一日の時点に遡つて[戦犯]の遺族にも恩給あるいは年金が下給できるはこびとなつたから、厚生大臣宛に遺族年金請求書をお出しなさい、といふ内容の通知で、同様な公文は各地方自治体から管内に居住する[戦犯]遺族の許にそれぞれ届けられたに相違ない。この立法措置により、いはゆる[戦犯]は戦没者と同等の資格をもつに至つた。この立法と行政の措置に沿つて靖国神社は対処してゐるに過ぎない。それにも拘らず、若年議員ならいざ知らず、自民党のトップ・レベルのお歴々が靖国神社の独断的行為であるかのやうな口吻を洩らすに至つては言語道断、一体、何を仰言つてゐるのか、もう少し勉強願ひたいと言ひたいところである。靖国神社の立場からすれは、昭和二十八年四月一日の時点を以て[戦犯]として処刑された方々の御霊を合祀申上げなくてはならない責務を負ふに至つたのである。その際、[戦犯]に冠せられたA級、B級、C級といふ形容は総て連合国側が向ふで勝手にランキングしたものに過ぎず、当方にほ何等かかはりのない事柄に属する。
 靖国神社は然るべき法的根拠によつて昭和殉難者を合祀申上げた。ここに、昭和殉難者と呼称するのは新聞ジャーナリズムが[A級戦犯]と呼び、公文書では法務死と呼ばれる東京裁判で亡くなられた方々のことである。

 [戦犯]などといふ心ない言葉を神社は到底許容することができないし、法務死といふ言葉も官庁間の用語としてはそれでよいだらうが、当方で使ふにはどうも落着きが悪い。そこで色々思案した挙句、明治維新の際、国に殉ぜられた方々を幕末殉難者、維新殉難者と呼称してゐる当社記録に徴し、昭和殉難者とお呼びする旨、昭和五十三年十一月二十三日の宮司通達で社内に徹底させた。この昭和殉難者十四柱の御霊を含めて、計百七十六柱を合祀申上げたのは昭和五十三年秋の例大祭の時であつた。昭和二十八年四月から然るべくお祀り申上ぐべき方々をこの時点まで放置してゐた理由は、当初は「東條さんの名前は国民感情に相当刺激が強いだらう」といふ靖国神社と厚生省の配慮に基いたもので、それで合祀が暫く見送られてゐた。私が宮司に就任したのは昭和五十三年七月のことだが、その八年ほど前の昭和四十五年六月三十日に靖国神社の総代会で、ある方が東條さん以下の方々の御霊をいつまで放つておくんだ、と発言し、それに対して、当時は靖国神社国家護持運動の盛んな時であつて、時期が適当ではないから、然るべき時期を見計らつて合祀する旨、前任の筑波宮司が総代会に回答をしてゐる。

 はからずも宮司を拝命することになつて私は過去の神社記録総てに目を通した。この議事録を見るに及んで、宮司預けになつてゐる事柄だし、国家護持法案も流れて機を見る必要は何も無いから、就任早々三ケ月、秋の例大祭で昭和殉難者の合祀を総代会の了承を得て断行した。就任早々でいささか荷が重かつたが、その時の気持は今やつてしまはないと、二、三年経つて合祀申上げたときに、お前は就任以来その間をどういふつもりで運営してゐたんだ、と問はれたときに答に窮するであらうと思つたからにほかならない。新聞は半年後の春の例大祭にこのことを知り、クリスチャンの大平首相の参拝と絡めて「A級戦犯をひそかに祀つてゐた」と報じたが、戦前であれば官報によつて合祀の神々を報じたわけだが、戦後にはさういふ手段は無い。合祀後、遺族に通知を差上げることで御了承いただいてゐるのが現状であり、ひそかにどうかうといふ性質のものではない。
 それにつけても、講和条約発効と同時にすぐかのやうに事務的な処置を敏速に行ふことのできた当時の国会や保守党には確固たる見識が備はつてゐたんだなと、賞讃したい気持が湧く。今日の国会、自民党の現状と見較べてみるとき、今昔の感に堪へない。
 
注 文中に出てくる遊就館は、現在の展示内容以前の建物のことです。





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最終更新日  2006年09月07日 17時40分22秒
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