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テーマ:たわごと(26883)
カテゴリ:アメリカ生活
今日書くことはあくまで権造本人の考えなので、あ~こんな人も居るんだってことで許して頂きたい。
ウチのサロンはかなり人種の坩堝であり、アメリカ、キューバ、コロンビア、ドミニカ、ボリビア、ジャマイカ、インド、日本と生まれた国が違うだけでなく、元々もっと違う国からの2世3世も混じっている。 話す言葉や肌の色などパッと見分かりやすい違いもあるし、考え方や信ずるところなどパッと見分かりづらい違いもある。 言葉の壁なんてものは大した問題にはならないが、一旦火が付くと大きな議論に発展するのが宗教の壁である。 この前のミーティングは権造は珍しく欠席したのだが、その時にひょんな事から宗教観の違いの話題になったそうだ。 ミーティング後にどうしても納得がいかないらしい同僚が引き続きジョージと話をしてる所へ権造は出勤した。 すぐ横で話をしてるので、権造もなんとなく聞くことになり、ジョージが『オレはいかなる宗教であろうと、人を導いていく先っていうのは同じ方向に向かっていると思っている。それがキリストであろうとブッダであろうとアラーであろうと、それぞれを神と思っている人達に幸せとか平和とかをもたらそうとしてるのって同じ事だと思わないか?ゴンゾウ。』とこっちにふってきたので、『ウン、ゴンゾウもそう思う。』と言うと、その同僚はものすごく怒り出した。 ブッダなんて神でもなんでもない、この世の神というのはキリスト以外にはありえない、と凄い剣幕である。 彼女はとても敬虔なクリスチャンであり、バイブルを必ず持ち歩き時間があるとサロンのどこかでバイブルをずっと読んでいる。 彼女はずっと苦労の耐えない生活を小さい頃から送ってきていて今もそれは続いている。 以前はよくサロンでも泣いたりしていたのだが、ここ数年は日曜日の教会以外にも夜に教会のメンバーと集まって勉強会のようなものをしているようで、随分落ち着いてきているようだ。以前、権造に嬉しそうに『ずっと悩んでた苦しみの答えが判った!バイブルにちゃんと書いてあった。』と何度も話したことがあり、あ~救われてるってこういう事なんだろうな、その都度元気を取り戻す彼女を見て素直に権造は喜んでいる。 それはとても本人にとって良い事だと思うのだが、他の宗教を一切悪とみなす部分は権造は賛成できない。 元々、権造は無宗教である。 父造はクリスチャンであり日曜日にはちゃんと教会に行っている。チビの頃は父造に連れられて一緒に行った事もある。 で、随分前に他界した祖母造は真言宗であり、やっぱチビ時代にホトケ様が描かれた小さい薄い紙を丸めてよく水と一緒に飲まされた記憶がある。 で、随分前に他界した祖父造はなにやら神社の行事があると出かけていた。 そしてチビ達は成長して全員無宗教である。 そんな状態なので、同僚のようにひたすら傾倒している姿と言うのは想像は出来ても理解はきっと出来ないだろう。 宗教というものは大辞泉によると、 しゅうきょう【宗教】 1 神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき。また、神仏の教え。 2 〔補説〕 経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や存在に対し、積極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系。アニミズム・トーテミズム・シャーマニズムから、ユダヤ教・バラモン教・神道などの民族宗教、さらにキリスト教・仏教・イスラム教などの世界宗教にいたる種々の形態がある。 という事らしい。 世界中に様々な形態があるが、意味するところは『信じて安らぎを得ようとする心のはたらき』って事でいいじゃないか、と権造は思うのだが、自分が信じている教え以外は正しくないと思い込む事に関しては凄く抵抗がある。 話しは変わるが、ここによくコメントを頂く室長の日記に、戦国時代の武将とか大名までキリスト教に改宗したそのきっかけというか心の動きの背景がなかなか分からない、というような事が書いてあった。 元々生粋のキリシタンではなく、ある日を境にキリシタンになったいきさつというのは権造もやはりよく分からない。 唯一想像が付いたのは、きっと元々信者であった人達とは全く違う心の過程を経てキリシタンになったんだろうという事だ。 もっと勝手に想像してしまえば、ふと思ったのは懺悔の観念というのも少なからず影響しているのかもしれない、という事だ。 元々日本語の『懺悔』と言う言葉は仏教用語である。江戸時代中頃までは『ざんげ』と平仮名で書かれていたようだ。 この懺悔、これまた大辞泉によると、 ざんげ【懺悔】 1 神仏の前で罪悪を告白し悔い改めること。 2 キリスト教会一般では、罪を告白し、神の許しを請うこと。カトリック教会では「悔悛(かいしゅん)の秘跡」の俗称。 3 自分の罪を悔いて他人に告白すること。「チーム全員の前で―する」「―話」 という事だそうだ。 3は横に置いといて、1と2を見てみると明らかな違いがある。 罪悪を告白するのは同じ行為だとしても、仏教の場合は『自ら悔い改める』のであり、キリスト教の『神の許しを請う』とは随分趣が違う。ちなみにカトリック教会の『悔悛の秘跡』とは『洗礼後に犯した罪について、悔い改め、司祭に告白することによって神と教会から与えられる罪の赦し。』という事らしい。 戦国乱世の中、無常ばかりの毎日で虚無感に襲われたときに、自らひたすら悔い改めるのと赦しを何かから貰うという事を考えた場合、許してもらうほうが人の心に平安をもたらすであろう事はなんとなく想像できる。 もしかしたらそんな部分も影響してるのかもしれない。 逆に考えてみると、キリスト教の布教のために当時日本にやってきたバテレンの人達の中に仏教に触れて改宗した人は果たして居たんだろうか、という疑問もふと沸いて来た。 当時外国に船で布教に出かけるというのは命がけの大仕事であり、きっとバテレン中のバテレンが選ばれたのであろうが、逆がゼロだったとしたらそれはそれでかなりな驚きである。 現代のキリスト教の話に戻ると。 ウチのチビ達はクリスチャンスクールに通っているので、毎日朝は学校内のチャペルでキリストの話を聞いているし、宿題の中にも聖書の一説を暗記したり聖書に関するプリントを貰ってきたりする。 チビ学校を選ぶにあたり、色んな学校を見てまわった。場所によっては学校のオフィスに申込書や説明書を貰いに行くと真っ先にアナタの宗教は?ドコの教会に行ってるの?と聞かれたりした。 親がその学校の所属する教会のメンバーになることが必須条件になっているところも多く、かな~り初対面からプッシュされたので、宗教心薄い権造はタジタジになってしまった。 そんな中、今の学校はオフィスに行ったときの柔らかい雰囲気に安心して、後になって自分の宗教について聞かれたときに『父親はクリスチャンだけど自分は教会にも行ってない。チビの教育のためにこの学校に通わせたい。』とぶっちゃけ告白したら、『それも立派な親としての考え方だし、理由になる。教会のドアはいつも開いているから来たくなったら来て欲しいが誰も強制しない。』と言われてホッとした。 実際、3歳にもも造が通い始めてからもうすぐ5年になるが、一度も教会には行ってない。 親はこんな有様であるが、チビ達は違う。 ここ造は来年から朝のチャペルが始まる。 もも造はすでに『この世界のいろんな物はジーザスが作ってくれた。』と言ったりする。 チビ達は改宗したのではなく、クリスチャンとして教育を受けている。 言葉は悪くなっちゃうかもしれないが、コレは刷り込み的要素もある。元々そういう家庭に生まれた子供はそんな環境で育つのだろうし、大きくなってもずっとクリスチャンで居ればそれはそれでいいと思うし、権造のように無宗教になってもどうでもいいと思う。 ただ、もっと成長した時に他の宗教を一切排除したり悪だと思うような人間にはなって欲しくない。 ま、ウチの場合はご飯を食べる時は手を合わせてイタダキマス、であるし、(このイタダキマス、仏教的意味合いには料理に感謝するだけでなく命を頂きます、の意もあるそうだ)、死んでしまったフィッシー達は必ず庭に埋めているし、自然界のものは全部敬えと言ってるし、かなり習慣に基づく考え方としてはミックスされていると思う。 元々、宗教というのは人の心に生まれたものであり、それを後になって文書化した時にその時代の背景や執筆した人達の受け取り方によって、元々の部分から少しは変わってる部分もあると思う。 それと同時に文書化したことにより、時代の変貌には関係なく不変のものになってしまった。もちろん本質的な部分は不変のものであるのだろうが、これが人から人へと語り継がれる形式を取っていれば、きっと現代の色んな宗教ってその宗教が生まれた時代からは本質的な部分を除き違う内容になっていたかもしれないと思う。 聖書を批判する気持ちなど全く無いし、そもそもちゃんと読んだ事もないので語る資格すらないと思うが、同僚を見てて思うのは、自分が求めて拠り所にするのではなく、それに縛られている部分があるような人も多いので、その人達が救われているのであれば素直に喜ぶが、自分はきっと同じようには生きる事が出来ないと思う、という事だ。 他の同僚にもよく言われる。 『ゴンゾウって、後は教会に行きさえすれば素晴らしい人間なのにねぇ。』 まぁ、この程度で充分シアワセな人間なんで、とサラっと流す事にしている。 まとまり無い文章になってしまったが。 時には国境と言う境界線よりも人間を分けてしまうこの『宗教』。 辞書の定義にもあるように『安らぎを得ようとする心のはたらき』はきっと誰でも同じなんだろうから、戦争の理由になる事は確実に間違っていると思う。 宗教が間違っているという事ではなく、政治とくっついてしまうから間違いが起きるんだと思う。 今日は、前オーナーおかまっちのお客さんだった女の人がブラリとやってきて、たまたま権造が手が空いてたので『髪の毛、頼んでいい?』というので快く引き受けた。おかまっちの予約が取れない時は必ず権造に頼んでくれたお客さんだ。 この人は5年前に癌と闘っていた。 克服して転移無し、と言われていたのに、今再び治療に通っているそうだ。 ホラ、こんな状態だからバリカンで刈って欲しい、と言って髪を引っ張るとパラパラとどんどん抜けてしまった。 以前、ジョージのお客さんの女性が乳がん治療でやっぱり頭を刈りに来たとき、ジョージは途中で手を止めてトイレにこもって出て来れなかった。長い付き合いのこのお客さんのことを思って中で泣いたそうだ。プロとしては失格だな、と言っていたのを思い出した。 権造はわりと冷静に後ろの髪からバリカンで刈りだした。 大丈夫だ、と思って残ってた前髪を刈ろうとして生え際にバリカンをあてた瞬間に急に泣けてきそうになった。 なんとか我慢して最後まで出来たが、どうしてもお金を貰う気にはなれずに『同情なんだか悲しいんだか、とにかく理由は分からないけど、お金は受け取りたくないので我が儘で申し訳ないんだけど、そうしてくれる?』と言うと、『ジム(おかまっち)も5年前に同じような事言ってた。』と言っていた。 髪がまた伸びたら一番最初に揃えるのは権造にやらせてくれる?その時にたっぷりチップは弾んでもらう事にしよう、と言うと、笑ってカバンからカツラを取り出してそのまま仕事に行った。 この人が宗教持っているのか、心の拠り所はあるのか、権造は知らないけど、生きていく、という事は本当に人それぞれ違うものだと思った。 権造にとっての心の拠り所というものは、自分の目の前にあって触ったり見たり感じたりできるものでもいいんじゃないかと自分では思っている。 なんだか考えすぎてグッタリな権造のために、クリックよろしくお願いします。 ↓↓↓ にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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