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2.17日記のコメント
読み違えだと思うが、第一にこれらの学者たちは60・70年代型のアイデンティティ・ポリティックスなるものを乗り越えたのであって、アイデンティティそのものを乗り越えたのではない。ただ、そのアイデンティティの理解のあり方が、より複雑でより現実に即したものへと変わったのだ。 むしろ2項対立型のアイデンティティこそが、現実理解からの逃避によって生じる幻想そのものである。社会科学の理論は、世界のアクチュアリティからしか生まれない。それ以外から生じるものは、おそらく全て偽物である。例えば現実には、純粋な2項対立型の闘争を長期に維持していくことは難しい。内部から必ず亀裂が生じるからだ。このことを、私自身のフィールド・ワークによって得られた3つの事例から説明する。 1.Intra-ethnic conflicts 単純に考えれば明らかだが、一枚岩のエスニック・アイデンティティの存在は不可能に近い。イギリスのパキスタン系の移民、あるいはそのdescendantsはほとんどがパキスタンのMirpurという一地方の出身者である。彼らはイギリスでの“パキスタン人”のrepresenterであるにも関わらず、国での彼らへの評価は極端に低い。例えば、一人のインド人ムスリムによれば、「Mirpuriはパキスタンではバカにされている。そもそもパキスタンの一部だと思われていない。言葉も文化も考え方も全て違う。教育水準が低く、読み書きもできない肉体労働者」。 2.Inter-class conflicts ところが、そのMirupuriたちの間にも当然闘争が存在する。例えば、私が会った中流階級のMirpuri出身者(2001年渡英後、British-born Mirpuriと結婚)は、宗教(ムスリム)や文化の面で南アジア系コミュニティを擁護しようとしつつも、イギリスの個人の権利・自由やbenefit政策に対する嫌悪は、むしろConservativeやBNP(極右)の意見に近かった。 3.Intra-class conflicts。あるいは、自傷からのアイデンティティ。 一方で、ラディカル化する白人の右翼やムスリム、あるいはstreetにたむろする黒人には、幾つかの共通点も見られる。例えば、ゲイへの極端な嫌悪。彼らは、おそらく傷ついた自己像とアイデンティティの不安定さから生まれる“masculinity”への強烈な渇望を共有している。masculinityは、60・70年代には黒人男性青年がほぼ独占的に所有していたものだが、その後の白人による極右の運動は黒人文化を模倣しつつ彼らのmasculinityを主張した。結果として、彼らの攻撃は最も女々しいとされていたSouth Asiansに集中して向けられることになった。しかしながら、近年のムスリムによる自爆テロは、彼らのmasuculinityあるいは身体性の奪還とも言うべきものである。 >多文化主義が差異を固定化させるのではないか、ということについては、それに関連する文献を見つけたので、時間ができたらおれのブログにアップするかもしれん。「A Defence of Multiculturalism」というものでスチュアート・ホールの編集する『Soundings』なる雑誌に載ってたものだ。 調べてみたら、この論文はTariq Modoodが書いたものだった。彼は、イギリスのムスリムとマルチ・カルチュラリズムの分野における第一人者の一人だ。その論文は読んでいないが、彼の主張自体はだいたい予想できる。むしろ意見が食い違いっているのではなく、多文化主義の定義や目指す多文化主義のあり方によって、議論が異なってしまうということだけだ。彼は決してブレアがかつて進めてきたような多文化主義には賛同していないだろう。 Modoodを含めてた知識人たちの論考は、以下のサイトで読むことが可能だ。 open Democracy お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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