母は昭和7年、千葉の貧しい農家に生まれた。
6人兄弟の長女として畑仕事を手伝う。
早朝から農作業。
親に代わり重たい農作物背負い、
家計を助けるため一日中売り歩いてたという。
昨年のこと、母の妹にあたる おばさん 宅(東京)を訪ねた。
おばさんは一通の手紙を見せてくれた。
僕は何気に読み始めた。
「サツマイモの季節に」
きれいに洗われたおいしそうなサツマイモが、
今年も八百屋さんの店先に出回っています。
戦時中の食糧難の時代には国民の貴重な食べ物だったサツマイモ。
農家の子供だった私も、春先に、床に置いて苗を取った後の、
水っぽく繊維だけになったイモまで食べました。
当時は味よりも量産を目的とした大きな石ころみたいな、
沖縄イモという品種が多かったようです。
その代用食にこりてか、戦後の混乱も落ち着くと
「サツマイモは見たくもない」という言い方も多いようですが、
現在のサツマイモは品種が改良されて味もよく、
見るからにおいしそうです。
初秋のサツマイモに、私は今一つの思い出が浮かぶのです。
中学三年の九月末の修学旅行を前に、
困窮を極める家計の実情を知っていた私は、
そっと二歳上の姉に費用の話をしました。
すると度量の大きな姉は
「大丈夫だよ。お彼岸ごろにいイモを早掘りして売って来てあげるから。
大きく育てて安く売るより、小さくても珍しいと高く買ってもらえば、
収益は変らないから」
と言ってくれました。
おかげで、二泊三日の日光旅行へも、人並みに参加できました。
親よりも頼もしかったその姉は、四十八歳であっけなく病死しました。
新鮮なサツマイモを見ると、苦しい戦時中の体験、修学旅行の思い出と共に、
今は亡き姉への感謝の気持ちがわいてくるのです。
親よりも頼もしかったその姉は、・・・
こみあげた。
とめどもなく涙があふれ、目がかすみ読めません。
母が亡くなって、
もう三十年も過ぎているというのに。
母への思いが三十年分の涙となって、いっぺんに溢れ出たのです。
潜在意識の中に
「ひと目会いたい」
「一言、今の自分へ、何か言って欲しい」
そんな気持ちが三十年も積もっていたのでした。
家の前、一面に広がる「ポピー」(1000坪) 隣を蒸気機関車が走る。
今日は母の命日。
天国から見守ってくれている。
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