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カテゴリ:心理・思考
慈愛と自愛のバランス【世界は称賛に値するさま】
「何をするにしても、「自分のため」という部分を切り離せない」という類のことを少し前に書いた。 「誰かのため」などと思っていても、その想いの底に自分の下心が透けて見えてきてしまうとも…。不純な動機だ、と感じる。 どうやら、私にとって「無償で誰かのために何かをする」ということは難しいことのようだ。 動機が不純であると、行為や想いそのものまで不純に思えてしまう。「誰かのため」だなんて、下心を隠すためのごまかしにしか思えなくなってしまう。 では、その行為は嘘なのだろうか。 その時、「誰かのために何かをしたい」と思ったのは、嘘なのだろうか。 そうではないと思う。 たとえ、それが下心から発生したものであったとしても、その気持ちそのものは嘘ではないと思う。 また、それが明らかな見返りを期待しての行動であったとしても、その行為自体は否定されるものでもないとは思う。 私が「無償で何かをしようとする」ことはなかなかない。「自分のため」を切り離せない。 で、あればこそ、「自分以外の誰かのために…」と思えたことを大切にしたいと思う。 たとえそれが、錯覚でしかないとしても…。 あと、見返りを期待すること自体は、さほど問題ではないと思う。 もっと問題なのは、自分の期待したとおりの見返りが得られなかったときにそのことに執着してしまうことだろう。 まして「あなたのためを思ってやったのにっ」と、そこで相手にぶつけてしまったら、せっかくの行為も台無しになってしまうような気がする。 でも、見返りを期待はしても、そのこと自体に執着することがなければ、そこまで一度止まることはできると思う。 どこまで言っても自分の下心を切り離せないのなら、まずはそこから始めてみるのがいいのかもしれない。 参考・関連:いまはたぶん、おれのため、と、あなたのため、を、うまく組み合わせて、優しげな行為、を、具現化させることができている【世界は称賛に値するさま】 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Jun 6, 2007 11:47:28 PM
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